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断片的、あまりに断片的な

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NO MUSIC,でもLIFE(2007.5,11雑記)

■I-PODなどで音楽を携帯していないから、常に音楽を聴いているわけでもないのだが、ここ1週間は自分の部屋でもNO MUSICだった。bjorkの新譜もまだ買っていない。本も読む気にならず、ブログを書く気もおこらず、アレコレ片付けをしたりパラパラと本のページをめくったりしていた。
 誰しも気分の波というのがあると思うが、ここ数年は気分が下降ぎみになると「あ、ヤバイヤバイヤバイ、これは違う、おかしい、信じ込まされてる丸め込まれてるだけなんだ」と自分に言いきかせてどうにかしようとする。自分の言ってることがバカらしく思えてくるまで、誰かに話したおすのも1つの手。

■〈メモ〉
文学史において、見る男/見られる女という従来の視線の方向ではなく、男性の身体を眼差し支配する女性という視点が導入されたのは、フローベールの『ボヴァリー夫人』からだという(小倉孝誠『〈女らしさ〉の文化史』)。でもそこで描かれる男性の身体は「女っぽい」、というかそれまで「女性らしさ」を表象してきた形容詞で語られる。なめらかな肌、長いまつげ・・・。「フツー」の男の身体は眼差されない、支配されない、見るべきところがない。もちろん時代を経るごとに、女性の目力は強くなっていくのだが・・・。
「男はいくらか女性化した存在として示される。欲望や快楽の対象になったとき、男がいわば女に転化してしまうのだ。まるで男は欲望されることによって、みずからのアイデンティティーを失ってしまうかのように。このような細部は、・・・《女=見られる身体、男=見るまなざし》という文化的コード、あるいはイデオロギー装置が貫徹されていたことをよく表している、と言えよう。・・・女に見られ欲望されるとき、男性性は危機にさらされたのだ」→マゾ

■〈引用メモ〉
「彼らはたしかに登場するが、彼らのことを書いた本ではないよ」
「じゃあ何のことを書いたんだ?」
「幻想としての真実」
「そして、真実としての幻想か?」
「最初に私がいったほうだ。きみがいったのはまたべつの問題だ」
・・・略・・・
真実というのはもともと存在していないのだから、あらゆるものは幻想だということができる。幻想とは、実は、事実を明らかにしていくことによって生まれる副産物なのだが、完璧な真実という峰には近づけないにせよ、それに近いいくつかの頂上に到達できるのはこの幻想である。たとえば、女装した男というのを考えてみよう。その扮装者は実際は男である(真実)。しかし、彼が自分を女(幻想)として再創造すると、事情は複雑になってくる。この両者を考えると、幻想のほうがより真実に近いのだ。
(トルーマン・カポーティ『叶えられた祈り』)

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