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断片的、あまりに断片的な

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英語を学ぶ

 最近、ヘレン・トーマス編"The body,Gender and Cultural Theory"の翻訳作業を毎日少しづつ行っている。院に入ってからは一語一語丁寧に訳すなんてことはほとんどしなかった。良く言われることではあるが、英語力はもとよりかなりの日本語力・表現力が要求され、久々に翻訳の難しさを感じている。

 今でこそ幼稚園やキッズ英会話教室などで幼き頃から英語に親しむ人が多いのかもしれないが、私の英語学習のスタートは中学生からである。習い始めの頃、一人づつ順繰りに先生が指し示した小文字の発音をさせられるというのがあって、かなりの恐怖感を持って順番がめぐってくるのを待っていたのを思い出す。残念ながらどのアルファベットに恐怖を抱いていたのかは覚えていない(bとdとかかな?a,h,rも大文字とはかなり形が違う。私はつけてなかったけど当時の日記があるとこういうとき面白いかも)。
 指示名詞のthatとthis、その2つのみのスペルを書かせるという超ミニミニテスト、さらにそのテストは前日から予告されていたにもかかわらず、全く興味も覚える気もなく案の定×をくらったのも良く覚えている。こんな初歩からつっかえていた私は、きっと学力心配生徒リストに挙げられていたに違いない。
 中学の英語で思い出すのは、英会話の外国人教師。1,2年は確かオーストラリアからやってきたミルトン先生で始終和やかな授業だった。ある生徒と先生がお話しするというシチュエーションで授業が行われたとき、「I'm a student」ではじめなければならない会話を、ここでもまた「I'm a teacher」と高らかに教師宣言してしまった。ミルトン先生は「Really?hahaha・・・」、何が起きたかわからない私は「Yes,I am」と力強くマニュアル通りの答えを返すのであった。
 3年のときにはイギリスから来た教師(名前忘れました)にかわった。ここでちょっとした事件がおこる。生徒に体罰を与えたのである(授業中に殴った)。彼はイギリスで体罰が当たり前とはいわないまでも、さほど不自然ではない教育を受けてきたようで、日本人教師のように暴れん坊を言葉で諭す、あるいは無視するといったことが出来なかったようだ。しばらく休んでいて、別の日本人の英語教師がことのいきさつや背景となる文化的違いを一生懸命説明していたのを覚えている。

 日本人の英語能力に関してはネガティヴな意見が多い。とりわけ問題となるのは英会話能力だが、他のアジア諸国などに比べると使う必要性に迫られることも少ないということもあって、覚えたことものほほんと忘れてしまう。「ここは日本だ!日本語だけ話せればいいんだ!!」とか、「それよりもまず日本語自体を学ぶべき」(「美しい日本」語)という国粋主義的な意見も飛び交う。そのような意見はおいておくにせよ、「英語という権力」という考え方も少し念頭に置いておくべきなのだろうと思う(どこいったって我が物顔で歩けるもんね、きゃつらは)。
 学部時代の師匠は、皮肉めかしたジョーダンで「日本もいっそのことアメリカに完全に占領されて、言語を押し付けられればよかったんだよ~」などと言っていた。院のY先生は、「正しい英語など話してやる必要などない!」として(「右」ではなく「左」的観点から)、クレオールよろしく、ジャパニーズ・イングリッシュなるものを推奨していて、いくつか例文を読んでいただいた。そんなY先生はもちろん英語が話せる(と思われる)。第3の道を提示・体現できるのは、第2の道を取得したからこそなのかもしれない。

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