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断片的、あまりに断片的な

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時計と儀礼と歴史欲と

Sが、30歳になった祝いとして自分でオメガの腕時計を買ったというので見せてもらった。区切りと感じられる年齢や時期は人それぞれだろうが、やはり「30歳」という年を迎えることに対しては身構えている人が多い。Sも30歳になる誕生日を迎える数か月前から、会うたびに「あと3ヶ月だよ、あと2ヵ月だよ、あと1ヵ月だよ・・・」とカウントダウンしながら、30歳の誕生日に向けて心の準備をしていた。

入学式、卒業式、成人式、結婚式、そして葬式・・・など、ある段階から別の段階への境界期(リミナリティ)には通過儀礼(祭り)が行われる。例えば入学式、この日から私はこの大学の一員となったわけだが、私はまだ「(この大学の)法や伝統や習慣や儀礼によって指定され配列された地位のあいだのどっちつかずのところにいる」(ターナー。以下引用は同氏による)。要するに、入学式の時点では、そこで大学の一員として認められながらも、右も左もわからない、自分の立ち位置も把握できない状態であるわけだ(瀬沼氏『キャラ論』に従えば自分のキャラが定まらない状態)。

当然そのような状態に人は緊張し、不安になる。どっちつかずに、曖昧に、境界上にいるという不安を儀礼=お祭り騒ぎに昇華させる。むしゃくしゃしたとき、失恋したとき、どうにもこうにもやるせないとき、人は酒をあおったり、ヤケ食いしたり、買い物しまくったり・・・など、祭りを導入してどうにかこの不安を乗り越えようとする。「不条理やパラドックスほど規則性を強調するものはない」、祭りのランチキ騒ぎは、明日の平穏・秩序をどうにか保つために導入されるのだ。もちろん祭りは長く、長く続くことがあるだろうし、祭りから抜け出せなくなって死にまでいたってしまうかもしれない。


権力者側も、祭りを導入する。人々から不安や不平不満を消し去ろうとして。ここだけ抑えとけばというポイント、それは社員旅行だったり、あるいはボーナスだったり、クリスマスだったり?浮気している負い目でやたらプレゼントするとか、やさしくするとかいうのも、自分の不安を祭りで乗り越えようとしている。自分だけテンションあがっちゃってるのだ、祭り気分なのだ。

Sも普段買わないような高級なものを買うこと=祭り開催によって自分の不安を紛らわす。高級品や宝石とやらは、そんな祭力を持っている。だから、ギンギラギンに宝石を身にまとっている人は、何度も不安を乗り越えるべく祭りを開催したのかな、いろんなプレッシャーを乗り越えてきたのかなと思う。というか、宝石はお守りや魔よけであり、愛を縛ろうとする、縛られようとする、明日のために。

で、野暮だけどその時計の値段を訊いてみた。「〇〇万円!」というSの答えに黙りこくる私。「アレ?反応薄いな。300万円ぐらいだと思った?」「ウン」「そんなの、買えるわけないだろ!!」。そのときちょうど私は、高級腕時計に関する資料を作り終えたばっかりで、ウン百万、ウン千万の時計の資料にさらされていたから、感覚がすっかり鈍っていたのだ。
フランク・ミュラーの新作「エテルニタス・メガ4」、世界で1本、2億6250円成(今月初めまで伊勢丹にて展示されていました)。買うのは、フランク・ミュラーのパトロンということだよなぁ、おそらく。
1000年カレンダー、超絶的複雑機能。1000年経っても動いて、カレンダー機能してるってすごいこと、今から1000年前つったら、1007年。2億5千万円でその歴史を買うんだなぁ、と。そいつも、フランク・ミュラーもなんという欲なのだろう。

1年半前くらいだかに電池が切れて以来、私は腕時計をしていない。それまではしなくては落ち着かず、出かける前にバタバタと探し回ってでも着けていたものだったのだが、なんていい加減なんでしょう。
じゃあ、30歳になったらカルティエでも買ってやろう。

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