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断片的、あまりに断片的な

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浅野素女『踊りませんか?―社交ダンスの世界』(集英社新書2004)

b1f78194.jpg フランス在中で、フランスの文化に関する本を何冊か出しているライター、浅野素女さんによる社交ダンス考。理論的なものではなく、自身の経験と照らし合わせながら社交ダンスの歴史を振り返ってみたり、「社交ダンス(の面白さ)とは?」を問うてゆく。

「社交ダンスの真髄は、いわば『軽み』にある。それは社交ダンスが型の踊りであるからだ。型が決まっているので、創作ダンスなどの表現派舞踏と比較したら、どこかキッチュで軽薄に見える。それで社交ダンスは二級芸術と捉えられがちである。しかし、軽みというのもまた、エレガンスと同様、鍛錬と思索を経て余分なものを削ぎ落とした末にようやく獲得されるものではないだろうか」(p.17)

 型=「軽み」というのはいかがなものか。例えば「パラパラ」だとか「盆踊り」などはその図式にあてはまるのかもしれないが、歌舞伎や能、バレエなどの身体の「型」が、「軽み」という言葉からはほど遠いことは容易に思いつく。
 浅野さんは「型」の社交ダンスと、「表現派」の舞踏(←舞踊だったかも・・・)を対比させているが(‐1)、まさに社交ダンスは「表現」の要素が希薄だからキッチュに見えるのだろう。後半部分で述べている「余分なものを削ぎ落とした末にようやく獲得される」ダンスの「硬い」型が、歌舞伎やバレエ同様に社交ダンスにもあることは否定しないが、問題は型のあるなしではない。「型」はある、でも「型」しかないといった印象(‐2)。そしてその「型」へのアクセスの容易さ(あたりまえかもしれないが「ちょっと歌舞伎でもやってみっか」とはフツー思わない。まぁ、強固な歌舞伎社会の構造があるからなのですが・・・)。
 もっとも、社交ダンスはその名の通り「社交」の1ツールであったわけで、そもそも「芸術」表現であったわけではない。さらにその「硬い」型は、社交ダンスの「競技化」(芸術化ではなく)という流れのなかで獲得されてきたものだ。(2008年北京オリンピックから正式種目になる、とのこと)。細かく点数化される身体の動き。点数獲得を目指して身につける「型」。
 もちろん単なる娯楽で気ままに踊っている人も多い。とりあえずあらゆる人びとに開かれていること、ただ踊って楽しむことも表彰台めざして頑張ることもできる、それが社交ダンスの魅力なのだろう。いいではないか「二流芸術」(浅野)と言われたって。

最後にもう一文。

「フランス革命の時代までは、あくまで家族が社会の一単位であり、カップルは一つの家のある部分にすぎなかった。カップルは家族の中に埋もれた存在にすぎなかった。それがフランス革命以後、夫婦が社会の一単位として社会生活の面前に押し出される。社会が個人の権利に目覚めたからだ。カップルの時代の到来とワルツの時代は重なるのである。ワルツを踊ることは、カップルの存在を社会に向けてアピールすることであり、個人対個人としてふたりが向き合い、ふたりであることの喜びを表現する手段でもあった」(p.51)

カップルダンスの誕生の社会背景については、別の本の紹介のときに、詳しく書く予定です。
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(‐1)「型」がなさそうに見えるものも実は「型」がある。また当初は「型」がなくとも次第に「型」に回収されていくことは多々ある。(われわれが美しい、気持ち悪いなどの認識・判断が可能なのは、そこにはそう判断可能な何かしらの「型」があるからであるともいえる(尼崎)。まぁこれはまた別の話・・・)
(‐2)モダンダンスは、身体の動きの意味を排して、「型」だけを提示しようとした(マース・カニングハムなど)。でも、それこそが意味(表現)である。

「型」について考えることは大変な作業だ。

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