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断片的、あまりに断片的な

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桜井圭介、いとうせいこう、押切伸一「西麻布ダンス教室」(白水社1994)

 以前このブログでもチラッと話題にした、桜井圭介氏によるパフォーミング・アートとしてのダンス講義をまとめたもの。いとうと押切が生徒役となって、随時質問、つっこみを入れていく。1994年初版と10年以上も前の本だが、「なんだかどうやって見たらいいのかよくわからない」舞踊・舞踏の、さまざまな「見方」を提示してくれている好テキスト。
 当時(今も?)ダンスの最先端を走るウィリアム・フォーサイスや、日本の暗黒舞踏に関する章など4章で構成。とりわけ興味深く読んだのが、「ピナ・バウシュと物語りな女たち」という女性ダンサーに関する章。「モダン・ダンス」という言葉をなんとなく目にしたこともあるかと思うが、「モダン・ダンス」とは何か。それは「女が始めて、ずーっと女が主流という女の」ダンス。

5552205b.jpg 「モダン・ダンス」の創始者とされているのが、イサドラ・ダンカン(米1878-1927)。彼女が主題にしたのは「私」で、そこが以前のダンス、つまりバレエ(クラシック)とは全くことなる視点。バレエは、身体技術や構造などそのシステムが問題とされるダンス。全体を通して語られている物語はあるけれど、動きそれ自体に何か意味があるわけではない、非常にシステマティックな動き。そういった「システム=制度=男=文化、そういったものから疎外された状態にある女が何か新しいことを始めようとするときに、まず最初に『私は~』という」(p.78)ダンス、それが「モダン・ダンス」であったというわけである。
 体を締め付けるバレエの衣装やトゥシューズを「無意味」のものとし、ゆるやかな布をまとい、裸足で踊る(彼女のアダナは「裸足のイサドラ」)。振付家の指示や、既存のフォーマットに乗らずに、「私」が思うとおりの、「私」に意味があるダンスを、唯一無二の「私」の感情を表出/表現することをダンカンは目指した。今日的な視点で見ると、愚直な方法のように思われるかもしれないが、20世紀初頭に、強固なシステム(=男性)と決別し、自らの世界で踊ったということには大きな意味があった。
 とはいえ、このようなダンカンの方法は、「システム=男性」「感情(自然)=女性」という潜在的な構図を際立たせたともいえる。男たちはダンカンのダンスを賞賛する、(母なる)自然のダンスとして。つまり、理解しがたいが故に魅惑的な女性のダンスという、男性の欲望に支えられた身体がそこにはあったということである(市川雅の
『舞姫物語』を参照)。

 イサドラに続いて登場するのが、「私のリビドー」を表現しようとしたマリー・ウィグマン(独1886-1973)。彼女の「表現主義」は次第に図式化=制度化され、結局はナチズムの新古典主義になってしまい、ヒトラーのお抱えとしてナチスに加担したという。「私」は、私だけで成り立たない。「私」を取り囲む社会から無傷ではいられない。
baa7940c.jpg つづいてマーサ・グラハム(米1894-1991)。抑圧されたものを言語化することによって自由になる、という「無意識の言語化」が彼女の目的。ただし、言語化するということは体系=システムを作ることであり、「結局は抑圧的な『制度=権力』を奪取してみずからが抑圧的な『男根』」(p.89)になることであるともいえる。さらに、「グラハム・メソッド」というシステムを作り上げてしまえば、その動きがシステマティックなものとして継承されていくのは当然だ。
 単純な例をあげれば、「解放」を表すには手を大きく広げるとか、「不安」は身を縮めるといった、「感情」表現の決まりごとができ、それを人びとに共有させてしまったならば、それはグラハムの「私」表現であるかもしれないが、そのメソッドでもって踊る例えば弟子たちの「私」表現とはならない。ただし、グラハムのカンパニーはもともとソロからはじまり、そののちも女性だけで担われていたという点を考えれば、「私たちの感情」の表現を行っていたとは言い得る。しかし、そこに男性が入り込む。その代表がマース・カニングハム。彼は動きから意味をなくそうと試みる。舞踊の主題は動きそのものにあるとして、純粋な動きを求めて。ざっくりといえば、カニングハム後は動きのための動きの追求、ミニマリズムなど抽象的なダンスが主流となる。

ee2bdbbb.jpg  そして最後に登場するのがピナ・バウシュ(独1940-)。バウシュは、抽象的なダンスが溢れる中でもう一度「意味」を見直そうとする。彼女がつきつける、見ているほうもヒリヒリ痛んでくるような「感情」や「現実」(「自然」、ではなくて)。「私」の、「私たち」の、ではなくて、「我々」の問題としていかに提示できるか。

 「女性=感情的」という構図は、男性が女性が社会が作ったものであって、そこにはあてはまらない人も当然いる、だろう。ただ、女の、男の何がしがないというのは詐欺であって、その二分法を認識した上で問題化する、その線をずらそうとするパフォーマティヴな運動(バトラー)こそがやはり魅力的だし、私にとっては興味深い。現に、「感情」の表現といってみたって、上で見てきたように同じではあり得ない。常に変わっていく、常に問い続けられていくなかで生成されるのがジェンダーである。 
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