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断片的、あまりに断片的な

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市川雅『舞姫物語』(白水社1990)

 永井荷風が浅草の踊り子や女性バレエダンサーを絶賛するのに対して、森鴎外は女性の踊り子を「恥じかき業」「淫売みたいなもの」という。市川雅は鴎外の「舞姫に対する・・・目に余るほどの保守的」な態度にいらだっているが、いつだって踊る女性の身体は、美しく魅惑的であると同時に(あるがゆえ)、淫らで破壊的なものである。
 市川は舞姫(踊る女性)の性質を、①天上的なもの(天使)、②破壊するもの(いたずらな妖精)、③地上的なるもの(生を表象する母)、④海的なるもの(死・退行を表象する母)の4つに分類している。このような特徴は舞姫に限ったものではなく、女性に対する表象としてもおなじみだろう。癒し、惑わし、抱きしめ、アナタの幼児退行を受け入れるのだ。
 『舞姫物語』には、そのような、時に相反する性質を同時に備え、多くの男性を魅了し狂わせた17人の舞姫が次々と登場する。入浴後の水を壜詰めされて売りにまで出されたチェリート、各国の貴族や政治家の間を渡り歩きスパイや魔女扱いされたモンテス、エキゾチックな魅力でドビュッシーやピカソなどの芸術家に愛された川上貞奴などなど。などと書いていたら、家の者が澁澤龍彦の『世界悪女物語』を買ってきた。そこにもマリー・アントワネットやエリザベス女王、クレオパトラら「悪女」たちの平凡ではない人生が綴られている。
 やさしくしたたかな者はなにも女性に限ったことではない。甘いマスクのイロ男が女性を惑わし、最後には裏切るというストーリーは定番といっていいと思うが、そこにはそれほどの興奮はない。なぜならその「だます男=主、だまされる女=従」という図式には、権力の逆転たる面白さが相対的に薄いからである。権力、地位、金、あるいは腕力でもって女性を説き伏せるという「しごくまっとうな」力関係が表象されている。市川はいう、「売春にもつながっていく女の媚態は世の乱れの徴候であり、制度転覆の危機をはらんでいる」。90年代の恐るべき女子高校生たち、世も末だと嘆いていたおじさんたちはアジアの買春ツアーで女をあさる。自分たちのそれは「しごくまっとう」なことだからである。

 話を「舞姫」に戻そう。舞踊はとうぜんのことながら、踊る身体を「見る」芸術である。

「見ただけでエロチックな感じを与えるのは舞踊の宿命であって、媚態をともなうにせよもっと直接的にせよ、異性の欲望をかきたてるのは当然のことである・・・(中略)・・・発端は視覚のエロチシズムである。見ることが不可能になればまた事態は異なってくるかも知れない。男と女の眼差しには世界を負の側に追い落とす臭いがあり、そうした眼差しが充分に開かれる風流や女歌舞伎に警告を発するのは、時の為政者がその臭いを感じとったからに他ならない」

 
異性だろうと同性だろうと、セクシュアリティの対象である性の身体にエロティシズムを感じるのは当然だと思うが、女性は、映画、マンガ、小説等々から、男性の視線を少なからず獲得してきたから、(女性の同性愛者でなくとも)女性の身体に(も)欲望する。男性の視線を媒介せずにアタシたちが欲望する身体がホモセクシャルである(レズビアンは「父権」の視線にまなざされている)。
 そういった意味で、昨年見にいったヤン・ファーブル振付の「主役の男が女である時」は、「エロティックな女性の身体」といったイメージをどのように超えていくか、という試みだったと思う。全裸になって男、女、獣の身体に随時入れ替わっていく「舞姫」。開脚前転をしたり、オリーブオイルにまみれてみたり、銀の玉をもてあそんでみたりと、非常にエロティックな動きの中にも、そんなエロさを隅に追いやる「女」ではない身体もそこにはあった。それは一瞬なのかもしれないけれど。
 ガリガリの幼児のような身体を白く塗りたくって性(人間?)を超越してしまうのではなくて、その境界線上での危うい踊りが披露されていたのだ。

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