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断片的、あまりに断片的な

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勝負の踊り―YOSAKOIソーラン

数日前偶然に、今年行われたよさこいソーラン祭りを特集したテレビ番組を拝見(ちなみにナビゲーターは大泉洋氏)。それを見て思ったことをつらつらと覚書。
今年は海外からの3チームも含め全341チームが参加し、観客動員数は216万人を超えたという。祭りは5日間にわたって行われる。札幌市内で様々なイベントが行われた後、最終日によさこいソーラン大賞をかけてそれぞれのチームが舞う(前日までの市内パレードでの舞も審査対象となっているよう。詳しいことはyosanetで)。

群舞でゴチャゴチャしていて何がなんだか良くわからず、派手な衣装がいっせいにあちらこちらへと動く様子は引いて眺めている分にはそれなりに目を楽しませてくれるが、踊りとしてはおもしろいものではないし、実際に番組としても踊りのシーンはカットしてつないでいた。マスゲームのおもしろみである。泡踊りは、こちらもつられて手をフラフラと動かしてしまうような共鳴力(?)がまだあると思うが、よさこいに関してはそのような眩暈の力はない。パレードなんかではまた別なのかもしれないが・・・。見る/見られるという役割がはっきりとひかれることによって「祭り」が消滅するとしたのは、柳田國男である。
番組を一番盛り上げていたのは、王座を狙うライバル同士の争いというストーリー。練習風景、苦労話、楽屋裏などを追い、感動の物語を仕立てあげていた。まぁ、テレビ的なのだろうが。よさこいにはこの手のストーリーや、町おこし(経済効果)としてのよさこいといった視点での本も何冊か出ている。手元にあるのは軍司貞則さんによる『踊れ!「YOSAKOIソーラン祭り」の青春』(文芸春秋1996)。つい最近アマゾンのマーケットプライスで購入したのだが、真新しいサイン本だった。

「踊り」という大きなくくりで考えた場合、参加グループが300チーム以上、観客が200万人以上も集まるよさこいソーランは、日本においてかなり注目度の高い「踊り」であるといえるだろう。先述したように、「現代の若者が一致団結」、「けだるい不良から熱き魂の青年へ」、「ひきこもりから希望を持った若者に」といった、鼻白むような言説でいっぱいだ。よさこいソーランが何かのきっかけになるとか、新たな発見に繋がったということはあるだろうし、そのことに対して文句はない。ただ救いとなるのが「勝負」の世界であるという点が気にかかる(これはアメリカの小学校の社交ダンスプログラムでも同様なのだけど。(→ドキュメンタリー映画「ステップ!ステップ!ステップ」)。勝/負がある世界でしか連帯は出来ないのか。
カイヨワは、現代社会は「眩暈」の遊びを捨てて、「勝負」=合理性のある遊びが遊ばれると嘆いた。社交ダンスも結局競技ダンスに進んだし、ディスコやクラブでの踊りも、すぐに競技のリングにあげられる(ディスコステップの大会(サタデー・ナイト・フィーバーのような)とか、ブレイクダンス、パラパラ全国大会とかとか)。

レイヴやクラブでのなりふりかまわない「個人的」かつ「一体感がある」という踊りは、そういった点で近代の合理性を批判した60年代のヒッピーカルチャーの復活、もっといえばプリミティブなものの回帰として語られるむきがあった。カイヨワにいわせればそれらは「堕落した眩暈」なのだろうが、いま「堕落した眩暈」ですらも衰退している気がする。「若い人がお酒飲まなくなった~」というのはいろいろなところから聞くところでもあり。ドラッグ関係は良くわからないが、少なくてもシンナーうんぬんの話はもう聞かないよなぁ・・・。別に、ドラッグやらなんやらがいいと言っているわけではなくて、日常的な合理社会から抜け出した先も、勝負の世界か・・・と思ってしまうわけである。まぁ、別のフレームってことはあろうが。

これは印象でしかないのだが、よさこいも、高円寺の泡踊りも、踊り手さんの大半は女性である。勝負性、あるいは要求される身体能力が少なくなるほど男性の踊り手は少なくなる(→盆踊り)。やはり踊る性は女か 。

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