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断片的、あまりに断片的な

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字幕翻訳:「デジタル格差」

               
先日、デジタル格差についての話がちょっと出たので思い出しました。半年前くらいに訳した「
あなたもISPになれる デジタル格差を埋める非営利プロバイダ創始の手引き」です。

連邦通信委員会(FCC)は2009年4月8日に、72億ドルの景気対策予算をブロードバンド推進にあて、アメリカの全家庭に高速インターネット回線を普及させる全米ブロードバンド計画に着手しました。とりわけ助成対象となったのは地域社会を基盤とする団体で、優先されるのは非営利団体や地方自治体州政府。住民型ワイアレス・プロバイダの創設に絶好の機会となりました。

これまでの住民メディアがぶつかってきた問題は、ネットワークが大手のケーブル事業者に押さえられてきたことでしたが、これを期に住民メディアがプロバイダ収入を得て、非営利番組の制作に費用を当てることができるようになるかも、というわけです。

 ・・・このあたりの話、アメリカと日本の違いは、元ケーブルテレビ勤務の知人に聞いてみよう・・・。

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コミュニケーション・スタディーズ

わたくしも少し書かせていただいた、渡辺潤監修『コミュニケーション・スタディーズ 』(世界思想社)が、すでに発売されております。コミュニケーション学を学ぶ学部生向けに書かれたテキスト本なのですけれど、わたくしがコミュニケーション学を学ぶにあたって一番最初に読ませられた、○○の法則だのなんだのかんだのと、こういってはなんですがいかにも「オベンキョー」的で、日常でのやりとりからかけ離れたテキストとは一線を画し、コミュニケーションする人なら誰が読んでも面白いものになっていると思います(!)。ぜひ、ご一読を。

わたくしは、8,顔とからだ、15,日本人の人間関係、27,消費とコミュニケーションを担当しました。

京都の用事

今度の土・日に京都女子大で行われる、日本ポピュラー音楽学会大会のワークショップ「戦後日本の『ライブ空間』の変遷」に問題提起者の1人として登壇します。わたくしは「ファッショントレンド調査者」の肩書ででるので、ファッションの話もした方がいいかな、と悩んでいるところ(多分、しない)。
 
以下、
大会のウェブより。
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「ワークショップA 戦後日本の「ライブ空間」の変遷」

宮入 恭平(ミュージシャン、社会学研究者、司会兼)
佐藤 生実(ファッショントレンド調査者)
増淵 敏之(法政大)
東谷 護(成城大学、討論者)

「場の魅力」はどこへ行ったのだろうか?かつてライブハウス、ディスコやクラブといった「ライブ空間」は、「新しい何か」を提供し受容する「サブカルチャーの場」として存在した。しかし現在では、ビジネス主体のもと、ノスタルジアを喚起させる場、身内同士で楽しむ場、さらには「場離れ」という現象さえ見られる。このような現状は、「ライブ空間」が場としての魅力を失ったことを意味するのだろうか。あるいは、「ライブ空間」そのものが求められていないのだろうか。

このワークショップでは、「ライブ空間」がどのように社会や文化に配置されてきたのか、そして、それがどのように利用されてきたのかという、戦後日本の「ライブ空間」の変遷をたどりながら、それぞれの時代における「場の魅力」を確認する。それを踏まえたうえで、現在の「ライブ空間」に存在する(あるいは存在しない)「場の魅力」について、パフォーマー、オーディエンス、そして(文化)産業という、空間に対するかかわり方が異なる三者の視点を交えながら議論する。(代表者)
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京都は、これまで1回しか訪れたことがなく、しかもそのときは体調最不調なうえに駆け足で10時間くらいしか滞在していなかったので、ほとんど記憶にないのだ。もちろん地理にもうとく、高速バスが到着する場所、宿泊先、会場の京都女子大の位置関係がまったくわからない。そっちの「お勉強」の方も必要なのである。

ただ、先日読んだ嶽本野ばらの小説「コルセット」の舞台が京都だったので、勝手にいろいろ妄想しはじめているところ。四条木屋町の喫茶「ソワレ」で男と女が待ち合わせするのである。

それから宿泊させていただく家は、安倍晴明の屋敷があった場所だったそうで、「陰陽師」(漫画の方・・・)読み返そうっと、と思っているところ。

ゴス講義

月曜日、ゲスト講師として「ゴスとゴスロリ」の講義をしてきた。その前にハウスや会社の人などにも大まかな内容を聞いてもらったのだが、ハウスではビデオカメラを回された。ガイドの練習ではこうやって自分のべしゃりを撮影して確認していた、とかいって。久しぶりにみなさまが聞くところの自分の声を聞き、悶える。

相も変わらず当日までバタバタと映像や音楽の準備をしていたが、雨も降っていたこともあって早めに大学入りして、英国帰りのサッチンと、当日流した音楽の歌詞を日本語に訳したりして遊ぶ。「喜び?歓び?悦び!!」書きことばの面白さと難しさ。

講義前にやってもらうはずだったアンケートのことをスッカリ忘れたり(途中で仲間が気づいてくれました、感謝)、精神安定剤として用意した原稿を読むような形になってしまって、あと顔が怖かったらしくて(!)、いろいろと反省点は多かった。

授業終了20分くらい前に小レポートを書いてもらうのだが、(A)あるスタイルと社会との関係、(B)自身のファッションと社会との関係どちらか選んでもらった。ちょっと書きにくかったかもしれない。(A)はやはりゴスロリと、自分たちが着ていた経験があるからか、制服あるいはスーツをとりあげるものが多かった。でもどれもすごく制服に肯定的。(B)では、いろいろ私的な話が聞けた。元ゴスロリでいろいろと悔しい思いをした子とか、アンチ「かわいい」の子とか、「腰パン」についてとか。あとは課題からはずれているけど、イアン・カーティス(ジョイ・ディヴィジョン)やマリリン・マンソン、江戸川乱歩、ヴィジュアル系ロックへの想いをつづる人、今度発売されるテレビゲームにおけるゴスについて語る人などさまざまだった。

それらレポートに3段階評価を付けたのだが、特にそのレポートを学生に返すわけではないらしい。私の学部時代は、必ず評価とともにレポートが返却され、それなりにその評価に一喜一憂し、先生からのちょっとしたコメントも楽しみだったのだが(もっとも、コメントをしてくれる先生はごくわずかだったけれど)。

 講義で使用した音楽は次の通り
 'Candidate’ Joy division (“Unknown Pleasures” 1979 英)
 'Double Dare’ Bauhaus (“In The Flat Field” 1980 英)
 'The Beautiful People’ Marilyn Manson (“Antichrist Superster” 1996 米)
 'Suha’ Xiu Xiu (“Knife Play”  2002 米)

最後のxiu xiu は特にアナウンスせず、レポートを書いてもらう間にBGMとしてかけた。現代のイアン・カーティスとして。ボーカルのジェイミー・スチュワートはバイセクシャルらしいが、性的な問題をたびたび取り上げている。来年はニューアルバムが出るとのこと。そのタイトルも、"Dear God, I hate myself”!

出会いに出かける、本

             
先日、新宿西口のブックファーストに初めて行ってきた。昨年出来たコクーンタワー内にあるこの店、地上から入ると場所がわかりづらいし、店内も妙な形になっていて迷路のようであった。行き止まりだろうと思って踵を返そうとすると、突然新たな道が開ける。導線がめちゃくちゃなので、店の構造をなかなか体で把握できず、あっちこっちにぐるぐる歩き回されていると、80年代にパルコが行った街路の導入が思い出された。目的ではなかった、あるいは興味など全くなく近づくつもりもなかったジャンルの区域に紛れ込み、ふと1冊手にとってパラパラと立ち読む。そんな実店舗ならではの偶然の楽しさを、より演出する店だった(実際、買うつもりもなかった本をいくつか購入)。

目的の本を買ってさっさと帰るというのなら、図書館のように整然と本棚が並び無駄なポップもない、ジュンク堂が良いのだろう。色気がない、だけに誘惑が少ない。

学部時代に紀伊國屋書店本店でバイトをしていたことがある。あの頃新宿には紀伊國屋ほどの大型書店は他にはなかったし、アマゾンの浸透もまだまだだったが、今では売上げはだいぶ落ちているだろう。ただ紀伊國屋は店内に劇場を持っていて、本と連動したイベントやセミナーその他演劇などを行って他店との差異化を図れるのが強みだろう。サイン会の多さもそこに含まれるだろうか?まぁ、さくらで並ばされるようなサイン会も多々あったわけだが。

青山ブックセンター(ABC)もそんな本屋の一つであったが、今はブックオフ下で4店舗のみが営業を続けている状況だ。(サブ)カルチャー、ニューアカ寄りの品揃えに力を入れていた同店の破産は、カルチャー誌「スタジオボイス」の先月の休刊を用意した。その最終号のなかで菊地成孔は「スタボイ系文化は今の若者たちにとってキャンプ(ここでは「かなり奇妙な、不自然な」くらいの意だと思う)」と言っていたが、それはしみじみ感じていたことではあったし、若者論でも指摘されること。もう、「みんながいっしょ」ですらないのではないか、と思う。ただ「ここにあるもの」だけ、という。
             
上の写真は、吉祥寺にある古本屋「さんかく」。「路地」とはいえないような狭い狭い家と家との「あいだ」を通り抜けた先に「発見」した。とにかく、岩波文庫が揃っていた。

全国の古本屋をめぐる、
古本屋ツアー・イン・ジャパンさん。眺めていると古本屋に出かけたくなる。「さんかく」も「百年」も、うちの近くにある「猫額堂」「伊呂波文庫」も、以前このブログでも書いた国立の「谷川書店」も載っている。同ブログのコメント欄で書評家の岡崎武志が「谷川書店」を勧めているが、ギョーカイでは有名なのだろうか。確かに店主のアクは強いが。

10月27日から神田古本まつり、10月31日からは神保町ブックフェスティバルだ。屋台もたくさん出るし、音楽やらお笑いやらの各種イベントもあって、本目的でなくともなかなか楽しめる。逆にいえば、本だけじゃダメってことなのかもしれないが。

字幕翻訳:「フロリダの農業労働者 トマト価格をめぐりサブウェイと合意」

随分前になってしまいましたが、デモクラシー・ナウの翻訳、アップされました。

フロリダの農業労働者 トマト価格をめぐりサブウェイと合意
」です。マックやサブウェイなど大手企業は、今や、労働者たちの訴えを無下にはできなくなりました。労働者たちの賃金向上を阻んでいるのはむしろ、その間に入る取引所なのでした。でももちろん、最も儲けているのはマックら「ニート」な企業でしょうが。

あともう1つ、デジタル格差についてのニュースも訳したのですが、こちらはCS朝日の番組内で放送されたようです。わたくしも未見・・・。

カルチュラル・スタディーズを学ぶ人のために

        
2007年の10月頃から訳し始めたのですから、約1年半かかったことになりますが、やっと!世界思想社から『カルチュラル・スタディーズを学ぶ人のために』(著:クリス・ロジェク/訳:渡辺潤・佐藤生実)がGW明けに出版になります。

カルチュラル・スタディーズはイギリス発祥の研究で、その歴史は40年以上になります。日本では90年代に紹介されましたが、私はちょうどその頃学部時代をすごし、卒論もカルチュラル・スタディーズを専門とする先生のもとで書き上げたこともあって、なじみもあり深く影響を受けた分野です。しかし、日本ではいっときの「ブーム」に終わってしまいました。「文化における政治を問う」というカルチュラル・スタディーズの視点は、近年「ダサい」ものとして捉えられているフシがありますが、それはどんな文化を考える上でも重要であり、有効であるという想いを込めながら訳しました。


【目次】
序 この本の読み方と使い方
1 文化の論点
2 カルチュラル・スタディーズを実践する
3 文化は言語のように構造化されている
4 文化に注目
5 カルチュラル・スタディーズの四つの契機
6 あなた自身の文化的状況
7 文化の歪み
8 ニート資本主義
9 ニートな出版
10 結論 文化的心像の「長い行進」
11 コラム: カルチュラル・スタディーズと日本の文化状況

著者のクリス・ロジェクはイギリス人ですので、あげられている事例もイギリスのことが多くなりますが、本書ではカルチュラル・スタディーズをより引きつけて考えていけるように、日本の文化についてのコラムを仲間たちとともに書きました。あとがきでもふれられていますが、元・お笑い芸人、社会福祉士をめざすもの、元・新聞記者、アイドル研究、博識「オタク」、ミュージシャン、高校教諭など実にユニークな書き手・研究者が揃いました。これらのコラム担当者だけでなく、共訳者であり師である渡辺研究室にはさまざまな経歴・年齢の人が集まり、大変刺激的に作業がすすめられたことを感謝します。

何より感謝は、もちろん渡辺師です・・・。かなり面倒をかけてしまいましたし、まずもってこのような機会を与えてくれたこと、ありがとうございました、です。訳は、あとがきにも書いてあるように、まず私が歩み遅く、まだかまだかと言われながら一通り訳した後で渡辺師に手を入れてもらい、そこから2人で検討作業という流れでしたが、訳者あとがきもそのような手順をふみました。あとがきの最後の一文は、まさにそんなやりとりがにじみでていて、笑ってしまいました。

それでは、
「ファニーハウスで珈琲ではなくビールを飲みながら」

告白と空気

          
先週、ニューヨーク州が同性婚合法化法案を提出なんてニュースがありましたが、先日の記事で書いたように同性婚が禁止になってしまったカリフォルニア州(『ミルク』!)含め、これからそんな動きがアメリカでは出てくるでしょう。デモやら住民投票やらで権利主張が行われるのは、(主として宗教上からの)厳しい差別や禁止があるからですが、日本では良くも悪くも曖昧なため、なかなかそういった動きは起こりづらいです。それは何も同性婚にかぎりませんが。

同性愛についてではないですが、女装家の三橋順子さんが『女装と日本人』(2008)のなかで、いかに日本が他の国々と比べて女装などの「クィア」なものに対して寛容であるかを述べています。女装している人であれゲイの人に対してであれ、ヘイトクライムが起こることはあまりないでしょう。でもそれは、決して「お手手つないで仲良くね~」などと思っているからでも、「自然」と認識しているからでもなく、不快感や嫌悪感を覚えてもそこまではしないという、ホンネとタテマエというか、陰口文化ということです。表面上は仲良く付き合って、裏では「エイズになるから一緒の皿を使いたくない」という驚くべきセリフを吐くわけです(実話です)。とはいえ、殺される心配がないのであれば、日本の曖昧さの方がいいというゲイの方々は当然いるでしょう。
              
 こんな話に関連してセジウィックの『クローゼットの認識論』を読んで、同性愛だということを隠す/カミングアウトすることについて隣人と話したのですが、日本だとその二項対立も当然曖昧になってくるわけです。カミングアウト=告白というキリスト教的なものですが、日本ではそれにあたるものが、うわさの「空気」。大学時代からの友人にゲイの男性が2人いますが、私は彼らからカミングアウトされたことは一度もないし、またこちらから尋ねたこともありません。少しづつ、なんとなく、気づかされる。例えば「ジャニーズってステキ」などの「男の子カワイイ」関連の言説。いわゆる「周知の事実」になるというか、次第に巻き込まれるというか(ネガティブな意味ではなく)。

※余談、わたくしの師は「周知の事実」という言い方を嫌うが、この言い方が「世間」的だからであろう。英語ではcommon knowledgeとか public knowledgeなんて訳されているが、「周知」の「周」は一般でも、公でもない。「やばくない?」「やばいやばい」で通じる世界のことである。
    
ただしそれは、「オカマ」とか女装など、わかりやすい「クィア」の記号を発する人にいえることであって、「普通の男」あるいは女ゲイには難しいかもしれない。知人たちがこんなことを言った。「外国人のゲイはいいけど、日本人はいや、気持ち悪い」。ボーイズラブもののマンガや小説にはまっていた古くからの友人と高校生のときに『ブエノスアイレス』(右)という映画を見に行ったとき、彼女はトニー・レオンとレスリー・チャンのベッドシーンに不快感を露わにしていた。要するに、異物・まったきの他者・笑い・異世界として同定するわけであって、「ミウチ」にそんなことはあってはならないということ。前者は日本人に、後者は三次元に。

アメリカは権利を得たものがち。日本は空気を掴んだほうがち。

あとアメリカの同性婚問題を見て思うのが、結婚というより、ファミリーへの意志。養子含め家族を作るという価値観の違い。

上であげたイヴ・セジウィック氏が先日12日に亡くなられたそうだ。享年58歳。

字幕翻訳:「もう一つのサプライズ 中絶容認派が再勝利」

デモクラシー・ナウ・ジャパン!で、2008年11月4日にアメリカ全土で行われた住民投票についてのニュースを字幕翻訳しました。→コチラからどうぞ

2008年の11月4日はアメリカの大統領選でオバマ氏が当選し世界中が湧いた日でしたが、全米150以上の自治体で住民投票が行われた日でもありました。この日最も予想外だった投票結果は、カリフォルニア、アリゾナ、フロリダでは、プロポジション8(同性婚を禁止する案件)が予想外にも可決されたことです。特に「夢のカリフォルニア」は、この年の5月に全米2番目に同性婚を認めた州で、1万8千組のカップルが結婚をしましたが、それがわずか半年ほどでくつがえされてしまったのです。

この逆転劇には、同性愛を禁止するモルモン教の、巨額を投じた反対運動にあるとされています。進歩と超保守(というかキリスト教)が共存するアメリカがわかります。その他この日には中絶の権利を求める住民投票などもありましたが(こちらは大勝利でした)、逆に私たちからすれば、「え?あのアメリカで、いまだ中絶できない州があったの?」といった印象も受けるかもしれません。それまでのサウスダコタの中絶禁止法はレイプの被害による妊娠にも適用されていたというのだから驚きです。その他、マイノリティ差別の是正をめざすアフォーマティブ・アクションの撤廃、ニューハンプシャーの上院議員が女性過半数に、などについて語られています。

今回訳はかなり苦労して、というのは住民投票の仕組みや雰囲気がつかみずらかったからです。それを含め、この住民投票の件については、また次に書きます。とりあえずお知らせまで。

娯楽の本

●最近、就寝前にベッドでゴロゴロしながら読んでいるのは、中野図書館の「廃棄本ご自由におとり下さいコーナー」からいただいてきた、海外ミステリー。海外ミステリーといえば、クリスティとか、ドイルとか、ポーなどをずいぶん昔に読んだくらいで、まったく不慣れなジャンル。とはいえエラリー・クイーンの名前ぐらいは知っている(従兄弟同士の2人の連名だとは知らなかったが!)。

今書いている「顔とからだ」コラムに何かしらヒントになるかなぁとチラリと思いながら(?)、クイーンの『顔(face to face)』(1967)を読む。もちろん何のヒントにもならず。faceという4つのアルファベットからなる暗号のハナシ。これはニューヨークが舞台。

ジェフ・アボット『図書館の死体(do unto others)』(1994)はテキサスの田舎町が舞台とあって、被害者、数々の容疑者含めみな顔見知りのなか犯人探しが行われるのだが不思議とドロドロしてなくてユーモアたっぷり。サラ・デュナント『女性翻訳家(transgressions)』(1997)は、「ある日ヴァン・モリソンのCDがなくなった」というそそる出だし。ほんとうに、まったく最小限で最大限の娯楽である。

●実家に帰るとき続きが気になって、元祖隣人b-girlが買い揃えている、矢沢あいの『NANA』21巻と、惣領冬実『チェーザレ』6巻を買う。が、『NANA』なんて10分、15分で読み終えてしまうものなぁ・・・。漫画は好きだが、楽しむ時間と値段の兼ね合いを考えるなんて、ついつい野暮なことしてしまったりする。まぁ、だからこそ漫画喫茶が成立するわけだが(現在は異なる利用のされ方が多いのだけれど)。

●2月は、b-girlと父の誕生日の月であった。気が向いたら何か、ちょっとしたものを贈る。今年は本にした。b-girlには、チェーザレつながりで、塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』と、雑誌の編集をやっているということで難波功士『創刊の社会史』。父には菊池成孔/大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録』を。b-girlは少し難色を示していた。父は買おうとしていた本だったとのこと。楽しもうが、内容が気に食わなかろうが、ともかく何かを体験してもらえる。読まずに本棚にしまわれてしまったらそうもいかないが、まぁそんなことはないだろうと思うから贈ったのである。

●中野駅付近で何か本を買おうと思ったが、適当な本屋が見当たらず。仕方なしに、それまで人が入っているのを見たことのない6畳あまりの小さな本屋に入る。文庫と、旅行雑誌と、あとなぞのビデオ(AVではないよ)が主の店。文庫はミステリー中心。あとは売れ筋。それは良いのだが、あまりにやる気のない棚であった。平積みもぐちゃぐちゃだし、同じ本が3~5冊棚に収められていたり、作家の並べ方もバラバラで非常にみずらい。わずかなスペースながらの工夫全くナシ。これでは客がこないのもうなずける。15分くらい考え込んで、向田邦子のエッセイ集を買ってみた。有名なれど、全く触れたことがない人。

「私」語りの占い師

湯山玲子の『女装する女』(新潮新書2008)は、今の女たち、とりわけ「アラフォー」と言われる世代の女たちの実態・欲望をさまざまな角度から読み解くエッセイ集だが、そのなかに「スピリチュアルな女」と題する章があって、近年のスピリチュアル・ブームや占いへの欲望が描かれている。端的にいえば、その中心は「悩みの外部化」と「他人に自分を語られることの快楽」であるという。悩みを話したり自己確認の作業が、友人らのあいだで面倒くさいもの、忌み嫌われるもの、あるいは「なーなーな答えしか返ってこないもの」としてある、というわけだ。私語り(そして私を語ってくれるの)は、ブログやら占い師やらが受けもつ。占い師はホストだというのもうなずける。

私も1回だけ、ひどく酔っ払って悲しい感情でいっぱいになっていた状態で、新宿の街頭で商売する占い師に占ってもらったことがある。内容なんか全く覚えていないけれど、「はい、この続きはあと5千円」と言われたのだった。あいにく(幸運にも?)、そのとき私は2千円しか持っていなかった。

会社の同僚も、ある有名な占い師に前世を見てもらったと静かに興奮しながら伝えてきた。1時間1万円の紹介制(一見さんお断り)。聞かされた前世物語は面白かったが、前世はお姫様と言われたからといって、別に彼女はお姫様然として生きていくわけじゃなかろうし(もともと姫っぽい人だが・・・)、どうということはない。「ホントは1時間なんだけど、私で最後だったから1時間半くらい話してくれて・・・」と言っていたが、やはり重要なのは「私」を語る時間なのだろう。

翻訳はイコールではない

カルスタ翻訳校正の日々。文法的間違いは一度チェックして、今は「日本語的」な間違いを修正する段階なのだけれど、「日本語的」におかしいと思ったところは、やはり文法的に間違えていることが多い。文法的とまでいかずとも文章的あるいは単語的におかしいなぁ・・・と思うところもあるのだが、ここらへんは共訳なので私が思う「おかしさ」がまったく相手(師)にはそう思われなかったりして、はがゆくも面白い部分だったりする。

修論を審査してもらった山崎ティーチャーが、自身のサイトでジジェクの一連の翻訳本に出てくるミスを指摘している。ジジェクは議論でよく映画をとりあげるが、山崎氏も映画通なので、映画のタイトル(邦題)含めいろんなミスをあげている(『幻想の感染』ではゴダールが"ゴダード"となっているようだ・・・)。

翻訳しているカルスタ本でも、映画のタイトルがたくさん登場する箇所があるのだが、最初の段階ではけっこう見逃していた。"Arlington Road”が邦題『隣人は静かに笑う』だもんな・・・。邦題の趣味の悪さはたびたび指摘されることだが、情報あふるる今の時代なんのいい訳もできない。

で、山崎氏のサイトには彼が趣味で読んでいる推理小説におけるミスをあげるページもあるのだが、そこでたびたび言われているのは、著者の「無知」というより、編集者の手抜き。今回訳していて、たびたびスペルの間違いとか、そもそも人名が違ったりするといったことに出くわし、師と2人うーんと唸る場面がしばしばあった。何よりこの作者は社会学関連の本を担当していた元編集者なのだった。

翻訳とは関係ないが、シェアメイトの英語(会話)について。あるシェアメイトの英語を、ある人が「彼の英語は"べらんめー"だから、ちょっと失礼な物言いとして受けとられているね」と言っていて、いやー日本語ではバカ丁寧でコンサバなのになぁ、とパーソナリティとしての言語を思うのだった。

そ、それから。うちの2階のトイレの管理は当然2階の住人(3人)がする。トイレットペーパーも順番に買う。最近私が買ってきたトイレットペーパー、安いからっていうので適当に買ってきたのだが、「Naive Lady」なぞという商品名がでかでかと。なんとなく恥ずかしいのだった。アホな邦訳はほんと、やめてもらいたい。

不気味な他者―『はせがわくんきらいや』『気流の鳴る音』

昨年のことだが取りにかえるものがあって実家を訪れたときのこと。居間に絵本が散らかしてあって、母に理由を尋ねると、絵本の整理をし「どこぞの誰かからもらったような"ダサい"ものは捨てる」という。

雑誌等の「芸能人のお勧めの本」といった特集で絵本を紹介する人がいる。そんな行為はついついなんだか「純粋無垢」なイメージの押し売りのように感じられてアホらしく思ってしまうことが多い私だが、それは別に絵本が嫌いだからというわけではない。懐かしさもあって、何冊かパラパラとめくった。
長谷川集平の『はせがわくんきらいや 』(1981年すばる書房)は当時だいぶ評判になったようだが、昭和30年の森永乳業徳島工場で製造されたヒ素入りドライミルクによって125人の赤子が死亡した事件を踏まえてかかれたもので(筆者自身もヒ素ミルクを飲んでいる)、作中の「はせがわくん」はそのミルクの被害者だ。

「ぼくは、はせがわくんが、きらいです。はせがわくんと、いたら、おもしろくないからです。なにしてもへたやし、かっこわるいです。はなたらすし、はあ・がたがたやし、てえとあしひよろひよろやし、めえどこむいとんかわからん」
「長谷川くんきらいや。せっかくぼくら仲ようしたりようのに。野球のときも、ゆるい球なげてもらいよんやで。そやのに三振ばっかりや。ぜんぜん勝てへんやんか。頭にくるやんか」
「長谷川くんもっと早うに走ってみいな。長谷川くん泣かんときいな。長谷川くんわろうてみいな。長谷川くんもっと太りいな。長谷川くん、ごはん、ぎょうさん食べようか。長谷川くんだいじょうぶか長谷川くん」
「長谷川くんといっしょにおったらしんどうてかなわんわ」
「長谷川くんなんかきらいや。大だいだいだいだあいきらい」

漢字にはすべてルビがふってあった。
真木悠介(見田宗介)氏の『気流の鳴る音―交響するコミューン 』を学部のゼミで読んだときに、ゼミ仲間と話したことが思い出された。今、その本が手元になく、実家で探したけれど見つからなかったので詳細を書くことができずウロ覚えの話になることを了承して欲しいのだけれど、紫陽花邑(あじさいむら)という宗教法人の共同体(コミューン)に関する箇所を読んでのことだったと思う。ひとつひとつの小さな花が合わさって大輪となっている紫陽花のように、そこでは一人一人の個性を尊重しながら共存する(真木は、個々が一体化する「モチ」的関係と対比させて、「ニギリメシ」といっている)。そこでは、「健常者」が「身体障害者」に対して「オマエの足、曲がっててかっこわるーい、気持ちわるーい、アハハ」というように、障害と言われているものを個性とみなして生活しているということだった。紫陽花邑ではそれが実現されているのかもしれないが、でもまずもって「不気味」だよね、というところからしか始まらないわけで、そういった不気味さがはじめからないと宣言するのは強迫観念だ、といった類の話をしたのだった。そもそもよく知らない奴=他人なんて「不気味」なのだし。それに一方的に相手の障害を「個性」と名指すとするなら、それはどうなの。
「はせがわくん」に対して「きらい、きもちわるい」という反応は当然である。それは「ボク」にとっての「自然」ではなかったのだから。もちろん「不気味さ」と共存するうちに、それが「自然」となっていくのだろう(その共存は「想像」でもあり得る)。だから、「ボク」が「キモイ、キモイ」と言ってるのは、その過程にあるというわけで、プロセスとしての「いじめ」をふっと考えたりするのだった。集団VS1人のいじめが醜悪なのは、集団のある1人以外はとくに相手に対して「不気味さ」を感じていないからなのではないか。「アイツなんだかムカつくんだよねー」「おーやってやろう!」っていう周りのただのノリ。

■関西弁を引用したわけだが、変換に困るというのを知る。


ゼミの新年、みんなの新年

1月始まってすぐにゼミの新年会@国分寺ほんやら堂。ミュージシャンの中山ラビさんが経営する店で、カウンター席を埋め尽くすのは彼女のファンらしき人も含め年齢層高めの人びと。通学路にあるってのに、若者が寄り付けないイマドキめずらしい雰囲気を持った店である。
いつの時代ですか?という感じでしょう。左から2番目のKくんのチェックのシャツが効いている。経歴、年齢実にさまざまなゼミメンバーと、いつもずうずうしく乗り込んでくる(いまや当たり前となった)部外メンバーと、いろんな意味で場に花を添えてくれる卒業生のSさん含め、わりと遅くまでワイワイやった。しかし本番は次の店だったのだった!

かなり熱っぽくお笑いについてMさんとバトル。ただし双方、特に、とりわけ、むしろ、俄然Mさんが酔っていたので(帰り道何度もタックルされる)話は堂々巡りになり、その論争に付き合わされたメンバーの1人(40代、妻子もち、教師、オヤジギャグ)はサウナに宿泊するハメになってしまった。次の日仕事でなくて良かったが・・・。しかしこの顛末が私「だけ」のせいになっているっていうのは、キャラという烙印のゆえんですな、トホ。

2009年に新たなことをスタートさせる人たちもいる。私も一応今年の3月で区切りがつくのだが、ゼミ仲間とともに新たな本作りに参加させていただくので、これからも変わらず付き合いがある。最近ではみなそれぞれ各自のことをやりだしているので、いろんな話の交換も楽しみである。

ゼミ仲間とともにの本はコミュニケーション論に関するもので、私は「顔と身体」「日本人の人間関係」「流行と消費」という3つのテーマを今のところおおせつかっている。その他、提出したままの論文の修正も残っているし、新たな翻訳などの話も出ている。
デモクラシー・ナウ(ガザ関係チェックしてみてください、随時アップされてます)でもチョコチョコ翻訳している。今年は徹底的に英語の勉強をしたい、のです。それから一昨年(!)からやっていたカルチュラル・スタディーズ本は、5月に刊行の予定。
あ、それから、私がほんのちょっぴりお手伝いした、翻訳本が本日発売(のはず)。タックルしてきた宮入氏訳の地下鉄のミュージシャンーニューヨークにおける音楽と政治(朝日新聞社)。ジャーナリスティックな内容なので、読みやすい。これについてはきちんと読んでからまた。思えばこの本は、私が大学院に入ったときに初めて授業で読んだものだ。最初の方は師とマンツーマンだったな、胃が痛かったです。

ローリー・アンダーソン「"ホームランド"について語る」

前にもちょっと書きましたが、アメリカの"Democracy Now!"というニュースサイトの日本版、「デモクラシー・ナウ・ジャパン!」で字幕翻訳を担当しました。デモクラシー・ナウ・ジャパンの主宰はサイードの翻訳でおなじみの中野真紀子さんで、校正も中野さんにやっていただきました。継続的に訳していくつもりですが、初訳した記事がサイトにアップされましたのでお知らせします。アーティストのローリー・アンダーソンへのインタビュー映像です。(→こちらからどうぞ

内容は、ローリー氏の2008年のパフォーマンス“ホームランド”についてです。その名の由来、あるいはその作品制作にいたる社会的背景(戦争)について語っています。詳しい内容は動画の方で確認していただきたいのですけれど、ここでローリー氏は「物語」という言葉をさいさん使っています。メディアや誰かが語る「物語」に自覚的であれねばならないけれど、またその「物語」を暴き語るのは私たちの「物語」です。そういえばちょっと前にこのブログで「物語」について少し書きましたね。
まったくこういうのを見ると、日本にはこういったことをやる人が少ないというか、表立たないなとつくづく思います。表立たないということは表立つ人にそういう自覚がないからです。アンダーグラウンドの力はそれとしてありますが、如何せんバランスが悪すぎる。母親が「日本でいったら加藤登紀子・・・くらい・・・?」と苦心の末言ってましたけど(髪型は似ているけれど・・・)。そして、ローリー氏みたいな人にこそ「チャーミング」という言葉が似合うと思います。

なんといってもローリー氏は「
O Superman」が有名です。私がこのPVを初めて見たのは美術館の一角でしたけれど、そこでずっとこの音楽と映像に浸っていたいと思わされましたね。

ローリー氏は長年のパートナーであったミュージシャンのルー・リードと結婚しましたね。「なんで今・・・」と気になるところではあります。

「純愛」か「したたか」か――東野圭吾『容疑者Xの献身』

1、ガリレオと原作
職場の知人が直木賞受賞作品を何冊か貸してくれた。そのうちの1冊が東野圭吾氏の『容疑者Xの献身』だった。天才物理学者・湯川学が、数々の難事件を解決していく「ガリレオシリーズ」の1作品である。「ガリレオシリーズ」は昨年テレビドラマ化され、『容疑者~』の方は現在映画公開中という話題作である。

ドラマの方は2回くらい見ていて、バラエティー番組でもたびたび真似されていた福山雅治が演じた主人公・湯川学の個性的なキャラクター(というよりキメゼリフ)も印象に残っていたが、そのイメージに惑わされずに読むことが出来た。  

作者が描く湯川のイメージは佐野史郎だったらしいが、それがために人物像が異なっていたというわけではなくて(佐野史郎だって浮かんでこない)、原作では湯川のみならず、全ての登場人物の印象が薄かった。全体的な印象としても「なんだか妙にあっさりした小説だな」というものだった。たんたんとした会話や描写、たんたんとした物語進行、たんたんとした終結。

この作品、「純愛物語」なぞと言われている。特に映画は、現在多くの人がブログで感想を書いていて、涙、涙に感動したという意見が多いが、私はこれが「純愛」物語なのかどうかにひっかかるのだ。「あんな安いドラマに感動するわけ?」と皮肉るとか、「純愛なんてあるのか」などと不毛なことを言うつもりはない。ある要素を誇張して強引に一つの読み、つまり「純愛物語」へと観衆を導く映画とは違って、原作の妙な温度の低さは多様な読みへと導くのではないか、と思ったのだ。

2、「純愛」
この作品で何が「純愛」であると捉えられているかをごく簡単に説明すれば、隣人・花岡靖子にほのかに想いをよせていた湯川の大学時代の友人で高校の数学教師である石神が、その天才的頭脳を武器に、彼女(とその娘)が犯した犯罪の身代わりになろうとするという「献身」っぷりである。

靖子が、突如訪ねてきた元夫を殺してしまい茫然としているところに、隣人・石神が犯罪の隠蔽をかって出る。花岡親子のアリバイ工作、そのために行ったもう一つの殺人、警察の尋問への対応の教え込みなど、石神はなんとか親子が犯罪者にならないようシナリオ作成に尽力する。しかし、警察の捜査がすすむにつれそのシナリオが綻びを見せ始めると、「靖子のストーカーである自分が、嫉妬にかられて彼女の元夫を殺害した」といって自首するという、「身代りのシナリオ」へと突き進むのだ。

「私にまかせてください」という石神の言葉に、ただただ従うだけの花岡親子は、石神に指示されて行った行動や工作が、どんな意図がありどんな意味をもつのかを知らない。もちろん自分たちを守るために、別の殺人が行われたことも知らない。

旧友として、石神の一連の振る舞いに疑問を持った湯川に、ある意味「説得」されたかたちで最終的に花岡は罪を認める。自分の「献身」が打ち砕かれてしまった石神が悲痛な叫び声をあげて話は終わる。

つまり「気味の悪いストーカーの犯罪」と思われようとも石神が花岡を守ろうとした姿、それを知った花岡が涙ながらに石神に謝罪する姿、そして結局花岡を守れなかったという石神の苦しみ・・・・・・に涙した、というわけだ。

だが、これすらも石神のしたたかなシナリオだったのではないか。

3、「ストーカーは演技だった」という演技
 石神は、自分がストーカーであったと見せかけるために、写真を隠し撮りしたり、パソコンで「勘違い」な脅迫状を送ったり、自室の壁に集音器を設置したことになっている。だが本文では、それらがいつから石神の部屋に置かれていたのかは記されていない。それらは事件が起こる前から、つまり靖子を密かに想い、彼女が勤める弁当屋に通い続けていたときから、すでにそこにあったのかもしれないのだ(花岡が自室で殺害をおかしてからすぐに、「どうかしましたか?」とやってくる石神)。つまりそれらストーカーの要素は、あたかも「献身」あるいは「純愛」のために事後的に用意されたかのように見せかけられた、とも考えられる。「ストーカーを演じる」ということを演じることによって、石神は演技以前の「ストーカー的行為」を無に帰し、たくみにそれを「NOTストカーの純愛物語」へと変換したのだ、と。

石神は、天才的頭脳を持つ旧友湯川であれば、「石神が犯人ではないこと」=「ストーカー行為の虚偽」を見破ることができるとわかっていた。石神は、そんな湯川の頭脳を、自身の「純愛物語」の構築に利用したのである。湯川は花岡に、「石神は殺人まで犯して、あなたを守ろうとしたんですよ」、と真相を明かす。花岡の心から、石神が消え去ることはないだろう。石神は花岡の心を一生掴んで離さないだろう。

4、キャラクターの不在
この事件の「真相」らしきものは、湯川の「推測」あるいは「旧友としての勘」で導かれるものであって、証拠が出揃っているわけではない。石神の心情や行動も、そこがキモだからほとんど描かれていない。だからこそ、上のような「うがった推測」も可能となるのだ。

別の「うがった推測」を行っていたのが推理小説家の二階堂黎人氏である。彼は2005年に『容疑者~』が「本格ミステリ」で1位を獲得したことをうけて、「『容疑者~』は本格ミステリーではない!」と自論を展開し、ミステリー界(?)に「本格」論争を巻き起こした。この論争については省略させてもらうが(ナカナカ「不毛」でおもしろいのですが・・・)、二階堂氏は「本格」ではない要素に、主人公の「推測」で真相が導き出されることをあげている。証拠のない「推測」が成り立つのであれば、別の「推測」だって可能なはずだ、と。そこで展開したのが、「石神が本当に愛していたのは、花岡靖子ではなく、その娘である」という「推測」だ。二階堂氏はこの「推測」が導き出されうる場面や描写をいくつか示しながら自論を展開する。多くの読者はこの読みに「そんなバカなことあるわけない!!」といって拒否するが、「それがあり得ない」という証拠もまた特にないのである。

例えば、花岡の娘が普段どのように生活し、どうような思考を持っているかといったような描写があれば、上の二階堂氏説や私の「石神の『純愛』構築」説はもっともっと疑わしいものになっていた、というよりもそのように読む余地を与えなかったかもしれない。直木賞審査員のジュンちゃん(渡辺淳一)は、「人間が描けてない」と言って東野氏の受賞をいく度となく阻んできたようだが(豊崎由美ら談)、「描けてない」のではなくむしろ「描いてない」のではないかと思った。安易な感情移入を拒否する、といったような。
5、イケメン―美しき愛の主体
原作では別の読みが可能だが、映画ではひたすらに「純愛」物語として読ませるようなものになっている(実は監督としては別の読みをさせる仕掛けを行ったらしいが)。そもそも、原作では髪の毛が薄く、目が細く、首が太くてさえない石神を、「イケメン」の堤真一が演じるというのは、映画としての華やかさや話題作り以上に、「純愛」ドラマを強固にするために必要であった。

というのは、例えばネット上で石神のイメージに合う人物としてあげられていた塚地武雅や温水洋一、もっといえば無名の俳優が石神を演じていたら、別の殺人を犯してまで花岡を助けようとした石神の姿に、嗚咽のような叫び声をあげる石神に感動して涙を流しただろうか。乱暴かつ失礼なことを承知でいえば、「気持悪っ」「押し付けがましい・・・」などという反応を多く引き起こすことになったのではないだろうか。それではだめなのだ(ヒットしないのだ)。

どんなにみすぼらしい格好をしようとも、髪の毛を梳こうとも、数々の恋愛ドラマを演じてきた堤の「イケメン」は、「純愛」の記号として機能してしまうのだ。それは他の読みの想起を圧する。思考停止を促す装置としての「イケメン」。感動という思考停止。

原作のキャラクターの不在が、別の読みの余地を残すことを意図してのことだとすれば、なかなか面白いと思ったし、逆に個性あるキャラクターは確固たる一つの世界観を構築するが(ささいな矛盾なぞどうでもよくなるような)、つまりそれは視点を偏狭化させるということだ(ここにはむろん、文字とヴィジュアルの違いも当然関係してくるが)。
まぁしかし・・・原作でも涙している人はたくさんいるようである。「あまりに純愛すぎて、悲しすぎて、泣いてしまいました」って・・・。そんな反応の多さにうんざりして、今回遅まきながら書いてみたのだった。ワルかもよ、石神。

「本格派」については、やはりこちらから・・・


ライブハウスと『ライブハウス文化論』

みなさん、最近ライブハウスに行きましたか?

ミュージシャンであり研究者の、友人宮入氏が『ライブハウス文化論 』(青弓社)という本を出版した。彼の音楽の送り手という立場から、日本のライブハウスの現状、ひいては音楽や社会状況を読むという、ありそでなかった「ライブハウス論」である。

まず、ライブハウスとはなんぞや?ということで、その日本の歴史や、客という立場でしかライブハウスに関わってこなかったものはあまり知ることのない、ライブハウスのシステムあるいはビジネス戦略が説明される。特に、アメリカで多くのライブハウス演奏経験を持つ宮入氏がライブハウスについて書くきっかけとなった問題、「ミュージシャンへのノルマ制」については、この本のキモでもある。
というのは、ライブハウスの「客」=音楽を聴きにくるわれら聴衆と考えるのが普通だが、80年代から導入が一般化されたノルマ制は、ライブハウスの顧客=ミュージシャンという関係を作り出し、強固なものにしたからである。つまり大雑把にいえば、オーディエンスが一人も集まらなくともライブハウスはなんら困ることがない。ミュージシャンに課したノルマで最低運営費が確保されているからだ。

奏者が顧客という図式は、近年話題にのぼる「フォーク酒場」ではよりはっきりと見えてくる。定年になって金と時間を持て余す「団塊」世代の人びとがノスタルジックかつナルシスティックにビートルズといった「青春」を歌いあげるフォーク酒場は、「巨大なカラオケ空間」として機能しているといえるわけだ。(上写真:高円寺ペンギンハウスにて。new residential quarters)
しかし、決して安くはないノルマを背負って、しばしばそれが赤字になりながらもライブハウスで歌うという行為も、フォーク酒場でのカラオケ感覚のような行為に見えることも少なくない。先月もあるライブイベントに行ったとき、一般客が演者より少ない寂しい状況で、ふと彼らがこの場でやることの意味を考えてしまった。以前ある友人ミュージシャンに尋ねたとき、彼は「対バンとのコミュニケーションが中心」と言っていたのを思い出したが、そんな言葉にもライブハウスの顧客=ミュージシャンという図式を読みとることができよう。(上写真:高円寺ShowBoatにて。バンド名忘れたが、ジョイ・ディヴィジョンとかパティ・スミスとかを独自のアレンジ&日本語訳で演奏。三谷幸喜似のボーカル)
私は音楽を趣味とし、赤字でもいいからライブハウスで歌うという行為を否定しているわけではない。むしろ、やみくもにスタービジネスめがけて突っ走るよりも健全だろう、とも思う。誰もがビジネスに出来るわけではないし、する必要はないからだ。しかし彼らにとってみれば「趣味」なものであっても、ライブハウスの客からすれば嫌な言い方だが「商品」である。客だって安くないチケット代を払っているのだから、妙な趣味を見せられるのはごめんだし、またそれを避けようとする。

本書のどこかで指摘されていたと思うし、私自身もそうなのだが、近年ライブハウスに行くという行為は、ある著名ミュージシャンか、あるいは友人のライブを見に行くかの2極化になっていて、フラリと未知の音楽を求めてそこに向うものは少なくなっている。そこには日本人の音楽に対する意識や、音楽環境も関係しているのだが(個人的には場の魅力の欠如もあると思う)、やはり「アンタのナルシスティックな自己表出は御免」という部分も大きいだろう(自叙伝、40分ノンストップ」を聞かされたときには辟易した)。ノルマ制を通した、ライブハウス側とミュージシャンの関係だけでなくて、チケット代を通した客との関係もまたライブハウス文化では重要だ。(上写真:宮入氏withカマチョ)

一般客がフラリとライブハウスに行くということ、そこには音楽やミュージシャンの青田買いという要素があったと思うが、今ではあらゆるノンプロミュージシャンが楽曲をネット上にあげ、ブログを書く。未知な音楽やミュージシャンを知るのに、そして彼らとコミュニケーションするのに必ずしも「場」は必要ではなくなった。そんな時代にあって、なぜミュージシャンはライブハウスで演奏し、客はライブハウスへ足を運ぶのか、そんなミュージシャンと客とのネゴシエーションを次回作に期待(とメールで、口頭でしつこく伝え済み・・・)。

本書出版後の宮入氏ライブに訪れたら、大学時代の仲間たちや、ハワイ大学時代の友人も集っていて、ヤジをとばしつつ出版をお祝いしていた。ライブ後はそんな仲間たちに混じって居酒屋でワイワイ。宮入氏がライブハウスとの「ノルマ」精算でいないあいだに、宮入氏の学生時代の武勇伝(!)をたくさん聞かせてもらいました。ふふ。


fabulous muscles―ゴスメモ3

今日は、翻訳本に収める予定の「ゴスとゴスロリ」に関する2000字コラムの読み合わせ。調べるうちに、じぶんのなかでなかなか面白くなってきている文化である。

樋口ヒロユキ氏の『死想の血統 』という本では、ゴス文化の実践としてサディスティックな身体改造やSMの実践をあげ、そこから天皇という日本の「神」を前にしてマッチョな身体を追求し、あげくその身体をおのずから突き刺した三島由紀夫の思想(天皇マゾヒズム)にサドらの実践とつながる「ゴス」を見ているが、これをふっと思い出したのは先日のXiuXIuのライブである。
前にも書いたが、XiuXiuボーカルのジェイミー・スチュワートは、現代のイアン・カーティスと呼ばれるようなゴス・ロックの流れにあるとされる人物である。そんなジェイミーを初めて生で見たのだが、角刈り頭に意外とがっちりした体に少々びっくり。最初は「なんだ、あの角刈り」なんて連れとちょっとした笑い話のように話していたのだけど、「軍人だよ、あれは」と連れが一言。XiuXiuには「Fabulous muscles(素晴らしい筋肉)」って曲もあるんですそういえば、そしてジェイミーはバイセクシャル。そして彼のfavorite authorはYukio Mishimaであると

Paul Hodkinsonは"Goth"という本のなかで、現代のゴスの実践はジェンダーやセクシュアリティはそれほど意識されておらず、それよりも「ダーク」さや「邪悪」なゴス思想が重要であるというが、Hodkinson自身もいうように主として「フェミニティ」な身体化の実践に、なんらジェンダー意識がないというほうが不自然である。だいたいゴス・ロックは「男」たるものが「女々しいことを」歌ってたりするわけでして。

ゴシックに戻って:ゴスメモ2

1970年代後半イギリスに誕生したゴス・ロックを中心としたゴス・カルチャーは、18世紀に生まれたゴシック文学の世界観に由来する。そのゴシック文学の舞台となるのが、12世紀後半から主としてフランスで栄えたゴシック建築の「廃墟」である。といってみたところでゴシック建築・・・、世界史あるいは美術史の時間にその単語は聞いたことはあれど、どんな建築かイメージしずらい人、もうすっかり忘れてしまった人もいるのではないだろうか。
↑これである(例えばこれはフランスのランス大聖堂)。
地域や時代によって装飾や構造などが異なるが、大雑把にまとめれば天を目指して突き出す尖った塔や、壮麗かつ威圧感のある意匠・構造が特徴の、キリスト教の修道院建築である。全長150メートルを超す聖堂もあるというゴシック聖堂のその大きさは、もちろん、キリスト教の力のアピールである。人びとは聖書(字)を読めないし、そもそも聖書だって貴重品の時代にあって、とにかくビジュアルで圧倒してしまえ、という発想だ。遠くにいたって、高い塔からキリストが見張っているのである(おお、パノプティコン)。

しかしこれらが、「ゴシック建築」と呼ばれるようになったのは、もっと後のことである。科学の発達、大航海などによって世界が広がり、教会の権威が揺らぎ出した14世紀からのルネッサンス期になると、古くささの象徴ともいえるこれら大聖堂は、「ゴート族(野蛮人)風の=ゴシック」といって蔑まされる。「ゴシック」とは蔑称なのである(ちなみにゴート族はドイツの古民族)。さらに新興勢力プロテスタントが、この華美な建築を批判、そして破壊。


このような流れでボロボロの廃墟になってしまった建物に美を見出したのが、貴族たちである。各地の廃墟を、苦労しながらでも巡る「グランド・ツアー」なるものがはやりだしたのは16世紀の後半で、ときのエリザベス女王もこのツアーを推奨したという。

見飽きてしまった華美な日常とは異なる、荒れ果てた建物に美を見て興奮する・・。断崖や激流を描いた絵を飾る「ピクチャレスク趣味」、あるいは人工的に廃墟を作る「廃墟主義」などに貴族たちは傾倒する。そんな貴族の一人であった人物、ホレス・ウォルパークが『オトラント城奇譚』という小説を執筆。これがゴシック文学の誕生といわれている。
日常ではなかなか感じえない恐怖を与えてくれるものを廃墟に見出す。金持ちだからこそなれの、「美(娯楽)」としての不安・恐怖消費。このグロテスクさが、そもそものゴス文化の出発点である。

・上 賛美賛美。「何が悪いっての?」 =消費
・中 罪悪感としみったれ 「ああ、なんだってこんな・・・(でもスキ)」 =埋没
・下 嫌悪or主題化しない =当事

((ロンドン)パンクと違って、ポスト・パンク=ゴス・ロックは中の実践であると)

私が20歳のころ、ベトナムに旅行に行くといったとき、じいさんは「なんであんなところに!」といった。それはもちろんベトナムを卑下したのではない。

そういえば日本でも「廃墟ブーム」が何年か前あった(工場ブームもあったなぁ)。私も今はなき九龍城の写真集をながめていたものだ(そして香港に行った)。そういえば、
つい先日電車で隣り合わせた「ゴス・ロリ」らしき女性2人(20代前半)の会話を聞いていた。「非日常が日常になってる」などと、「ふつう」ではない生活をおくっていると話す1人の女性が、「アタシやっぱ軍艦島に行きたいんだよね~」。


ゴスとゴスロリと:ゴスメモ1

先日、「ゴス(イギリス)とゴスロリ(日本)の身体比較」といった発表をちょろっとやった。70年代後半~80年代イギリスのポスト・パンクあるいはゴシック・ロックの周囲で形成されたゴス・カルチャーにおける、白塗り、黒アイシャドウ・マニュキア、ボディピアス、タトゥーといった身体装飾は、「フランケンシュタイン」「吸血鬼」などの18世紀のイギリスゴシック文学の世界観を反映したものだ。そのようなおどろおどろしい身体は、反消費主義(華々しさへの抵抗)、半軍国主義(戦場で目立つ白塗り)、反資本主義賃金労働(とても雇える身なりじゃない)、そして社会常識に対立する実践だが、やはりイギリスから誕生した文化とだけあって、その根本には「階級対立の残酷さ」の体現があるという。

ところで、ポスト・パンク、ゴス・ロックとはなんぞや、という話題になった。簡単に説明すれば、(ロンドン)パンクと80年代ニューウェーブの接着剤ともいえるジャンルで、パンクからアンチな姿勢は受け継いでいるものの、非常に内向的で暗い音楽と称される。パンクが後づけで「ポジティブ・パンク」などと呼ばれたように、その志向性は「ネガティブ」であった。逃避的反抗、といえるだろう(「逃走=スキゾ」でもない、と思う)。といっても音それ自体にはそれほど「ダーク」さはなく、アーティストたちの身体実践やら思考に拠るジャンルであるといえよう。


例えば、ゴス・ロックと呼ばれたバンドのひとつであるジョイ・ディビジョンの、「アイソレーション」('80)という曲の歌詞をちょっとあげてみる。


 母さん僕は頑張ったんだどうか信じて  自分に出来るかぎりの努力はしたのに
 自分自身の経験には赤面するばかり 自分という人物が堪らなく恥ずかしい
 一人ぼっち一人ぼっち一人ぼっち

 けれどもしもきみが美を感じたならば  表しえなかったものを知ってくれれば
 僕にとってはそれがたまらない慰めだ  僕にとってはそれこそがご褒美なのだ
 一人ぼっち一人ぼっち一人ぼっち
 一人ぼっち一人ぼっち
 
ボーカルのイアン・カーティスは、1980年のアメリカツアーに向う前夜に自殺。23歳だった。死ぬ前にはヘルツウォークの『シュトロウェクの不思議な旅』(ドイツのストリート・ミュージシャンがアメリカにわたって、すったもんだした末自殺する話)を見ていたという逸話もあるイアンは、必然的にゴス・レジェンドに名を残すこととなった(その他のメンバー達は「ニューオーダー」で現在も活動中)。

あまりに、弱い。でもこれは中産階級の嘆きではないか。「階級対立の残酷さ」を語る、語れる、語ろうとするのは中産であると思う。日本人がもっともコネクト・共感しやすい位置なのでは。そして日本へ→ビジュアル系→「ゴスロリ」。


そんなイアン、ジョイ・ディヴィジョンのドキュメンタリー映画が渋谷シネ・アミューズにて公開中。


"JOY DIVISION"

2007年、イギリス
監督:グラント・ジー

翻訳、その後

師のパートナーKさんから、「nanka iikanjiなので、添付します」とのメッセージとともに、右の写真が送られてきました。河口湖合宿の様子です。ちなみに、このとき師は昼寝中。

翻訳はほぼ終わったのですが、次にやることとしてコラムの執筆があります。原著はイギリス(ORアメリカ)の事例がほとんどですから、想像しにくいことも多かろうということで(テレビ番組とか。「ジ・オズボーンズ」は周りでも見てる人多かったですけど)、原著の内容に合わせた日本の文化について、ゼミメンバーが手分けして書いていく予定です。

私は当初から、「ゴスとゴスロリ」というテーマが与えられていました。イギリスのゴス文化は一言でいえば「消費主義の否定」として読まれ得るものであるようですが、日本のゴスロリの実態はどうなのか、ということ。たまたま近しい人にその道の方がいるので、その人含めその周辺にも話を訊ければと思っております(2,000字程度のものですが)。

新宿マルイワンはゴスロリファッションがかなり集積されており、たびたびメディアでとりあげられる近年のゴスロリ聖地(差異化、成功といったところか)。そのツアーも楽しみに。やっぱ、ちょっとした参与観察になろうから、そういった格好した方がいいでしょうかね。そういえば、原宿のストリート・パフォーマンスの調査を共同で行った際にも、メンバー達からそんな提案が冗談交じりであったけ。・・・知人に相談してみよう。

偏見の誤訳

2007年度最後の授業を終え(は、早いですよね)、その後、師とこれまでに終えた翻訳文の読み合わせ。2時間半ほど細かくアドバイス(ダメ出し)を受ける。そこでも話に出たのだけれど、日本語の表現力の無さを痛感する日々。たった3つの単語での表現を、どう訳そうかと20分くらいあーでもないこーでもないと唸っているのはザラ。そこはあきらめて、とりあえず先に進んでしまえばいいのかもしれませんが、それが出来ない。結果、締め切りに追われ、最後の方は慌ててやるという悪循環に陥るのだが・・・。今後はそこを改めてやろうかと。

ちょっと面白かったのは、2004年にアフガニスタンで殺されたパトリック・ティルマン伍長に関する文章での誤訳。彼はアメリカのナショナル・フットボール・リーグでの活躍を捨て、対テロ戦争に参戦したのだが、元スポーツマンということでかなり体がゴツイ(彼の写真も載っている)。で、彼はその実、無神論者で反戦活動家で、チョムスキーの仲間だが・・・うんぬんといった文章があるのだが、私は「無神論者で反戦活動家」という説明を、無意識のうちに、「自動的に」、チョムスキーにかけてしまっていた。改めて読めばすぐにわかることなのだが。恥ずかしながらティルマン氏をあまり存じていなかったということもあるが、師いわく、「アンタは、アメリカ人のスポーツマンが、そんな考え持ってないっていう偏見があるんだろう」と。確かに、そうかもしれない。意識下の偏見に気づかされたのであった、反省。でも、個人的にはとても興味深い気づきでした。

その後、学部のゼミ生とコンパがあるという師とともに、中山ラビさんがきりもりするほんやら洞まで歩く。このお店についてはイラストを描かなくてはならないので(師とのコラボレーション、これについてはおってまた)、その前に飲みに行かなくてはなぁと思っている。イヤ、飲み会ではいつも食べ損なう、ご飯を食べるというのもいいかもしれない。マーボー豆腐のビジュアルが忘れられないので。

論文モロモロ

昨年の夏にある論文集に投稿した「踊り場における『恥じらい』のコミュニケーション」という論文が、昨年末やっとこさ冊子になって私の手に届けられました。なんだかバタバタして、ちゃっかり載ってしまったという感があるのですが・・・。そういえば、昨年は、現風研の論文集にも「『踊り場』における女性の身体」を載せていただきました。興味ある方は抜き刷りあります。

そして3月には、「世間のディスクール・断章」と、以前仲間たちで観察しに行った、原宿のストリート・パフォーマンスの記録が形になります(どっちも同じ論文集に入ります)。今日、校正したものを提出する日だったのにすっかり忘れていて、出かける寸前にあたふたと赤入れ。

「世間のディスクール」では成人式について触れたのですが、今日のゼミでももうすぐ成人式ということもあってその話題に。なにかっつーと「佐藤さんがそのように行動するその思想的背景は何なんですか!?」と挑戦的かつ皮肉っぽく切り込んでくる思想野郎S氏は今日も健在で、成人式に参加しなかったその旨を尋ねられました。まぁ、なんというか親からの影響は強いですよね、ハビトゥスといえばいいのか・・・。そんなもん出るもんじゃないと教え込まれたというより、そんなことは存在しないかのように無視されていましたので、逆に私としては「ちゃんとそれに参加する人っているんだなぁ」という印象でした。それだけですまなかったのは、大学の友人が、私が成人式に参加しないことに対していきりたったからです。これは「世間のディスクール」でも紹介したエピソードなのですが、その方は「みんなが参加するのにあなたはどうしてるわけ!!独りぼっちでその日を過ごすんだ、あーー可哀想にね!!」ってなことをグジグジグジグジ私にいい続けたのでした。私は、成人式に参加する人をどうこう言うつもりは全くないですが、このような(世間的)物言いには反抗します。

思想野郎S氏には、「ディズニーランドに行かない思想的理由はなんですかー」と聞かれたこともあるのですが、まぁそれも似たような理由です。ディズニー作品の言説がどうこうということはおいておくにしても。「えーダメだよぉ、人生の大部分を損しているよ~。もっと積極的に人生を楽しまなきゃ!」って言われたことあるんでね、ディズニーランド信者に。

空気をパッケージング

現代アートのことではありません。

 アマゾンから1冊の本とたっぷりの空気が届けられました。アマゾンの過剰包装は以前からですが、これほどひどいのはお初。「過剰」というより「怠惰」な包装なのでは。どういうつもりでこんなことになっているのかわかりませんが、梱包担当者の近くにタマタマこのダンボールがあったのですかね?という意味で怠惰。

卒論のグールドと今後のグールド

質問をいただいていた私の卒論(うーん7年ほど前!)の大まかな内容と、それをもとに(といいつつデータはないです。メモ書きのみ)今後書き直そうと考えているグールド論について簡単に紹介します。お断りしておきますが、卒論は「グレン・グールド論」というより、「メディア論」といった方が正しい。ちょっと青臭いメモ書きから引用します。章のタイトルの後に、その章の象徴するようなグールドの発言を引用しているあたり、かなり格好つけています。

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タイトル:グレン・グールドの可能性

【序 アンチ専門家】
「グールドについて何か語るとき、そこで音楽のことについてしか語らないことは(ましてやクラッシックというものだけにしか触れないとするならば)、その外にあるもの、つながっている事象が見えなくなってしまうのである。音楽は、音楽としてだけ存在しているのではないし、文学も、芸術もまた同様にそうである。・・・(略)・・・この論文はグレン・グールドについて論じたものではない。グレン・グールドの発言などから、そこを軸として別の問題への発展性を提示していきたいと思う」(だってーーー)

【第1章 自然か否か―テクノロジーをめぐって】
「僕はテクノロジーの侵略を信頼している」
・コンサート(アウラ)の否定、レコーディング(テクノロジー)という魔法への信頼といった、グールドの態度を検証した上で、「自然」や「生」といった神話の相対化。

「(レコーディングに反対する)こういう人たちは皆、錯覚のなかで生きているんです。言わば不動化することが出来たかも知れないような歴史を形作るそれぞれ別のさまざまな時期や瞬間の聖なる性格についての錯覚のなかでね。これは魅力的なことですよ。でも錯覚なんです。人生はそんなに単純なものじゃない。音楽もね。ありがたいことに」(グールド/モンサンジョン)

・グールドが最も好んでいたメディアといえるラジオについて。「欠けた」(wireless)メディアの可能性について。ラジオの「私的」なつながりについて。

→マクルーハン、ベンヤミン、アドルノらの論が軸。さらには、この頃エレクトロニカの手法を採用しはじめていたレディオヘッドについての言及も!!

【第2章 レコーディング、はたまたコンサートをしない】 
「拍手喝采おことわり」
・1章のテーマとかぶっているような章題だが、ここではアーティストと聴衆との関係について論じたようだ。コンサートのそれと、メディアを通したそれと。

「観客をコンサートに引き寄せるのは何か。それは聴衆がどうあがいても、またどう望んでもとてもまねできないようなことを、まさにコンサートやオペラのステージでパフォーマーが試みるからである。しかし聴衆がただ唖然とするしかない技巧の極致―ステージで実際に目にすると劇的な衝動力すらともなう技巧の冴えーは、その実、背後でそれを可能にした制度や権力なくしてはありえない」(サイード)

 →引き続きのアドルノ、サイードらの論が中心(だが、またレディオヘッドが・・・)

【第3章 私的ラジオ体験】 
「ラジオはそれがあるべきかたちで利用されてはいない」


「放送する際に、聴衆者の存在が想定されるわけだが、それは一人の聴衆者である。何百万人もの人が聞いているかもしれないが、いずれも一人、もしくは小人数で聞いているのであり、それぞれがみな個人的に語りかけられているような気持ちになっている(はずである)。それに加えて、聴衆者は共感を持って、少なくとも関心を持って耳を傾けていると考えて差し支えないのである。退屈すればすぐにスイッチを切ってしまえるからだ。しかし、おそらく共感をよせているにしても、聴衆者にはこちらを支配する力がまったくない。まさにこの点が、放送が演説や講演とちがうところである。しょっちゅう人前で話す人なら誰でも知っているように、演壇に立つと、自分の話しぶりが聴衆に左右されないでいることはまず無理である。(略)「詩の朗読」というのがあのようにいやなものであるのは、聴衆の中に退屈している人や、ほとんど敵意を隠さない人がつねにまぎれこんでいるからなのだろう。そうした人々は、ただスイッチをひねるだけで消えてくれはしない」(オーウェル)

→もち!マクルーハン、オーウェル、粉川哲夫、大澤真幸、カフカが中心(そしてここでもレディオヘッドが・・・radioつながりか?メモを見る限り歌詞を引用しようとしていたようだ)

【第4章 ドキュメンタリーという虚構】 
「すべては、たとえ人びとがこのすべてにどんなレッテルをはっていても、ある意味では芸術作品になりうる」 ・3章で見たラジオでグールドが試みたこと、ラジオドキュメンタリー。それは「1つの声」がその他の声を従属させないといった対位法的アプローチにもとづいた「対位法的ラジオ」であった。「ドキュメンタリーは劇化しなければならない」として、ドキュメンタリーの「芸術性」を主張する。ここから、「作られる」ドキュメンタリー、ひいてはメディアが表象する「真実」「自然」といったものの虚偽(構築)性を指摘する。さらには、しばしば映画のストーリに従属している、あるいは聴衆を感動に、怒りに誘導するところの音楽の使われ方についても。

「『真実を言え!』とジャーナリストは強要し、そしてわれわれはもちろんこんな質問を発することはできる。第11戒の制度を管理運営する者にとって、『真実』というその言葉の内容はどういうものなのか、と」(クンデラ)

→トリン・T・ミンハの戦略的ドキュメンタリー映画論に始終したような気配がある、そして最後にミラン・クンデラの引用が・・・。当時読んでたんですね、おそらく。

【第5章 超肉体、そしてのっとられた身体】
「私はどこでもひとりになることが出来る」

・メディアによる身体の拡張、あるいは分身の創出。電話好きで、「彼とは親友ですよ、会ったことはなく電話で話すだけですがね」といったグールドの発言から、テクノロジーがもたらす「孤独」と「連帯」について。 「私は、自分の指がひいているのではなく、自分の指はまさしくその瞬間にたまたま私と結びついている独立した単なる延長物だと感じるときがあるんです。私は、自分がしていることに全身的に身を委ねながら、自分自身に距離を置く手段を見出さなければなりません」(グールド)
→ふたたびマクルーハン(とその研究者レヴィンソン)、シュネーデール、アドルノ、ボードリヤール、ヴィリリオ

【終 終わりに】
・「トラブルを起こせ!」といった文脈で、無理くりジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』(←関係ないじゃん・・・)が引用されているような気配がある。危険、過去の私に警告だ。グールドの議論や実践は、表現すること、あるいは文化の受容についての今日的な諸問題につながるという指摘でまとめた、と思う。

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今、とある「孤独プロジェクト」に参加していることもあって、第5章をふくらませた論を考え中である。グールドと「孤独」はつねにセットで語られてきたけれど、その社会学的な考察はなかったかと。メディアの「連帯」/「孤独」についてはうちの師も随分前に語ったことであるし、メディア論の前提であるけれど、携帯電話やインターネットなどやたらとメディアによる「連帯」が強調される現代において、その「孤独」な利用法(ポジティブな意味での)を改めて考えてみるのも悪くなかろうかと。もちろん身体のこともからめて。