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断片的、あまりに断片的な

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色っぽい文章

バルトの文章は読んでて贅沢な気持ちになる、そして色っぽい。

「私にとっては、ポルノ写真の映像にプンクトゥム(引用者注:刺し傷、小さなな穴、小さな斑点―その写真のうちにあって、私を突き刺す偶然)はない。その映像は、せいぜい私を楽しませるだけである(しかもすぐに倦きがくる)。これに反して、エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティックな写真の条件である)。セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外に連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外となり、映像は、それが示しているものの彼方に、欲望を向わせるかのようになる(「明るい部屋」1985)」。

バルトの文章、それ自体がプンクトゥムな文章である。

学部時代に初めて読んだとき、その詩的な、「間」(あるいは外部)の多い文章に、読みづらさを感じたのを覚えている。「フランス的がすぎる!」。

随分前に読んだ本をひっぱり出してみる。「あのとき」、興奮した文章。「神話作用」を書いたバルトによる「脱神話化すること」というエッセイ(全文)。

「私は長いあいだ、自分のような平均的な知識人でも、集団的なイメージが怒涛のごとく押し寄せるのにたいして、情動の操作にたいして闘うことができるし、また、闘うべきであると信じていた(たとえそれが自分自身との闘いにすぎないとしても)。それを称して、脱神話化することと呼んだものである。私は今なお、あちこちで闘っているが、実のところ、先に述べたようには、もはや少しも信じていない。いまでは権力は偏在しているのだから(これは私の世代の人たちによる重大で、しかも不吉な発見だ――たとえ素朴な発見であるとしても)、いかなる党派の名のもとに脱神話化すればよいというのか。自分自身が操作のシステムの一部を成しているというのに、誰がその操作を告発するというのか。体制内に回収されていること、これが今日的な主体の定義なのかもしれない。そうなると、もはや残されていることと言えば、傍らの、他処の声、何処とも結びつかない声が聴かれるようにするしかないであろう(「小さな歴史」1996)」。

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