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差異化のレースからおりるか、その内部に切り込むか―ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン-社会的判断力批判』(藤原書房1990=2005)
Pierre Bourdieu "DISTINCTION:A Social Critique the Judgement of Taste"(Hervard University,1984=2002)
(原著はフランス語ですが、英語訳を参照しました)


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 授業で少しづつ読んでいたブルデューの『ディスタンクシオン(distinction)』の2000字レビュー。当初タイトルは「差異化のレースをおりて、価値体系を転覆させよ!」としたのですが、本書の意図とはかけ離れ高らかな宣言が過ぎるのでちょっと変更。怠けていたが故、当日会社に自分のパソコンを持っていき、休み時間にシコシコと作業。いつもながらの自己嫌悪・・・。会社をちょっと早退させてもらって学び舎へ直行。発表の順番が最後で時間もかなりおしており、「来週にしましょうか・・・?」と、書き直しの可能性に胸躍らせつつ、さりげなく発表の延期を提案してみるが、「なに、なんでよヨークさん」と突っ込まれる。あまりふんばっても怪しまれるので観念しました、ハァァ・・・。
 大幅に加筆訂正しようかな、とも考えましたが、誤字脱字、勘違いのみ訂正しました。


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bourdieu.jpg 音楽を聴き、洋服を選び、映画を見て、食事をする・・・。そのような普段何気なく行っている文化的慣習行動は、出身階層(経済資本)およびしばしばその階層に対応する教育水準(学歴資本)と密接な関係にある。P.ブルデューは、さまざまな階級および階級内集団には、特徴的な諸性向の体系「ハビトゥス」があるとし、そのハビトゥスと文化的慣習行動・趣味との密接な関係を、多彩なデータを用いながら明らかにしていく。

 ある文化に対して愛着を持っているというとき、そこには「愛着を持ち得ない文化」が同時に存在している。「テイストは避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定であり、おそらく、何よりもまず嫌悪なのだ」とブルデューがいっているように、愛着を持ち得ない文化との差異化をはかることが、何かに対する愛着を指し示すこと・体現することとなるのである。
 「もろもろの趣味(テイスト)は、『階級』を示す特権的指標として機能する傾向を持」ち、「趣味は分類し、分類するものを分類する」とブルデューは言う。美しいものと醜いもの、上品な趣味と下品な趣味といったテイストを区別・分類するという操作(distinction)は、自らを卓越化する(distinguish)ことであり、自らの占める位置を表現するということである。

 ただし、ブルデューによれば、この卓越化を行えるのは多大な経済資本・文化資本・学歴資本を所有しているブルジョワジーやエリート層だけであり、彼らがこの差異化のゲームの主導権を握っている。プチブル層や労働者階級の人びとにはとうてい入手できないものの所有や浪費、彼らとは異なる身振りや言葉、大衆には理解しがたい・親しみのない文化の支持など、ブルジョワ層は常にプチプル以下の層との差異化をはかり、「正当」な文化はここにあるのだということを見せびらかし続ける。
 このゲームの餌食になるのが、ブルジョワ層に追いつけ追いつこうとするプチブル層である。文化生産の場は「あなたもこれでハイソサエティ!」と鼓舞する商品を生み出し続け、教育機関は「素晴らしい人生が約束される」とささやきながら徐々にその門戸を広げ、プチブル層を誘惑する。「あれも・・・それも手に入れたい」という「欲求不満の期待」に突き動かされるプチブル層は、必死になってブルジョワ層のテイストに近づこうとするが、その必死さはブルジョワ層にとってみれば、みっともない猿真似にすぎない。なぜならブルジョワ層のテイストは、自身の生活様式において「自然」に身についたものであり、必死になって身につけた「ニセモノ」のそれではない。数世代にわたって受け継がれ再生産されてきた数々のテイスト、その歴史は、どうあがいても成金プチブルには手に入れることが出来ない。
 また、仮にプチブルがブルジョワの文化を所有出来たとしても、その文化はただちに正当性を剥奪される。プチブルがその文化に触れたとたん、ブルジョワはそれを自らの文化から追放し、新たなる「正当」文化を更新し続けるからである。

 このように、決してブルジョワに勝つことの出来ないこのゲームは、「相手を組みこむ闘争であり、また最初にハンディキャップがあるという点では再生産的な闘争である。というのも、つねに一定の差が保たれているということが示すように・・・・・・彼らが追いかけている先行者たちの追求目標の正当性を暗黙のうちに認めていることになるからである」。
 ブルジョワがいうところの「ホンモノ」を追い求めること、それはブルジョワの優位を保証することにほかならない。中間(下層)文化があってこそのブルジョワの卓越化であり、階級の対立はたがいに相手によってはじめて存在するものであり、文化の価値とそれを所有したいという欲求を生みだすのは、共犯関係にある敵どうしの闘争のなかにおいてなのである。

 このような再生産のレースを停止するには、ブルジョワ層の生活に対しての「欲求不満の期待」を断ち切るほかない。前を走るものへの同定を断ち切ること、その結果、本当の意味での価値体系の転覆がはじめて可能となるとブルデューはいう。
 しかし、既存の価値観に疑問をつきつけたカウンターカルチャーについても何度か言及し一定の評価を与えてはいるものの、その息の短さや、社会の外部に出るという「逃争」には批判的である。そもそもブルデューは、ブルジョワ層以外の文化を「文化」とは決して認めない。単純で操作されやすく、そこにあるもので満足してしまい自らは何も生みださないといった、おなじみの大衆像がそこでは描かれている。

 社会で戦う武器としてブルデューがもっとも重視するのは教育である。アルジェリア系移民の労働者階級出身ながら、大学教授というエリート層までのぼりつめたブルデューは、階級システムを保護・再生産し続ける教育機関の批判、1998年には母校の高等師範学校を占拠するなど、教育問題に積極的に取り組んだ社会学者である。

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