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断片的、あまりに断片的な

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卒論のグールドと今後のグールド

質問をいただいていた私の卒論(うーん7年ほど前!)の大まかな内容と、それをもとに(といいつつデータはないです。メモ書きのみ)今後書き直そうと考えているグールド論について簡単に紹介します。お断りしておきますが、卒論は「グレン・グールド論」というより、「メディア論」といった方が正しい。ちょっと青臭いメモ書きから引用します。章のタイトルの後に、その章の象徴するようなグールドの発言を引用しているあたり、かなり格好つけています。

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タイトル:グレン・グールドの可能性

【序 アンチ専門家】
「グールドについて何か語るとき、そこで音楽のことについてしか語らないことは(ましてやクラッシックというものだけにしか触れないとするならば)、その外にあるもの、つながっている事象が見えなくなってしまうのである。音楽は、音楽としてだけ存在しているのではないし、文学も、芸術もまた同様にそうである。・・・(略)・・・この論文はグレン・グールドについて論じたものではない。グレン・グールドの発言などから、そこを軸として別の問題への発展性を提示していきたいと思う」(だってーーー)

【第1章 自然か否か―テクノロジーをめぐって】
「僕はテクノロジーの侵略を信頼している」
・コンサート(アウラ)の否定、レコーディング(テクノロジー)という魔法への信頼といった、グールドの態度を検証した上で、「自然」や「生」といった神話の相対化。

「(レコーディングに反対する)こういう人たちは皆、錯覚のなかで生きているんです。言わば不動化することが出来たかも知れないような歴史を形作るそれぞれ別のさまざまな時期や瞬間の聖なる性格についての錯覚のなかでね。これは魅力的なことですよ。でも錯覚なんです。人生はそんなに単純なものじゃない。音楽もね。ありがたいことに」(グールド/モンサンジョン)

・グールドが最も好んでいたメディアといえるラジオについて。「欠けた」(wireless)メディアの可能性について。ラジオの「私的」なつながりについて。

→マクルーハン、ベンヤミン、アドルノらの論が軸。さらには、この頃エレクトロニカの手法を採用しはじめていたレディオヘッドについての言及も!!

【第2章 レコーディング、はたまたコンサートをしない】 
「拍手喝采おことわり」
・1章のテーマとかぶっているような章題だが、ここではアーティストと聴衆との関係について論じたようだ。コンサートのそれと、メディアを通したそれと。

「観客をコンサートに引き寄せるのは何か。それは聴衆がどうあがいても、またどう望んでもとてもまねできないようなことを、まさにコンサートやオペラのステージでパフォーマーが試みるからである。しかし聴衆がただ唖然とするしかない技巧の極致―ステージで実際に目にすると劇的な衝動力すらともなう技巧の冴えーは、その実、背後でそれを可能にした制度や権力なくしてはありえない」(サイード)

 →引き続きのアドルノ、サイードらの論が中心(だが、またレディオヘッドが・・・)

【第3章 私的ラジオ体験】 
「ラジオはそれがあるべきかたちで利用されてはいない」


「放送する際に、聴衆者の存在が想定されるわけだが、それは一人の聴衆者である。何百万人もの人が聞いているかもしれないが、いずれも一人、もしくは小人数で聞いているのであり、それぞれがみな個人的に語りかけられているような気持ちになっている(はずである)。それに加えて、聴衆者は共感を持って、少なくとも関心を持って耳を傾けていると考えて差し支えないのである。退屈すればすぐにスイッチを切ってしまえるからだ。しかし、おそらく共感をよせているにしても、聴衆者にはこちらを支配する力がまったくない。まさにこの点が、放送が演説や講演とちがうところである。しょっちゅう人前で話す人なら誰でも知っているように、演壇に立つと、自分の話しぶりが聴衆に左右されないでいることはまず無理である。(略)「詩の朗読」というのがあのようにいやなものであるのは、聴衆の中に退屈している人や、ほとんど敵意を隠さない人がつねにまぎれこんでいるからなのだろう。そうした人々は、ただスイッチをひねるだけで消えてくれはしない」(オーウェル)

→もち!マクルーハン、オーウェル、粉川哲夫、大澤真幸、カフカが中心(そしてここでもレディオヘッドが・・・radioつながりか?メモを見る限り歌詞を引用しようとしていたようだ)

【第4章 ドキュメンタリーという虚構】 
「すべては、たとえ人びとがこのすべてにどんなレッテルをはっていても、ある意味では芸術作品になりうる」 ・3章で見たラジオでグールドが試みたこと、ラジオドキュメンタリー。それは「1つの声」がその他の声を従属させないといった対位法的アプローチにもとづいた「対位法的ラジオ」であった。「ドキュメンタリーは劇化しなければならない」として、ドキュメンタリーの「芸術性」を主張する。ここから、「作られる」ドキュメンタリー、ひいてはメディアが表象する「真実」「自然」といったものの虚偽(構築)性を指摘する。さらには、しばしば映画のストーリに従属している、あるいは聴衆を感動に、怒りに誘導するところの音楽の使われ方についても。

「『真実を言え!』とジャーナリストは強要し、そしてわれわれはもちろんこんな質問を発することはできる。第11戒の制度を管理運営する者にとって、『真実』というその言葉の内容はどういうものなのか、と」(クンデラ)

→トリン・T・ミンハの戦略的ドキュメンタリー映画論に始終したような気配がある、そして最後にミラン・クンデラの引用が・・・。当時読んでたんですね、おそらく。

【第5章 超肉体、そしてのっとられた身体】
「私はどこでもひとりになることが出来る」

・メディアによる身体の拡張、あるいは分身の創出。電話好きで、「彼とは親友ですよ、会ったことはなく電話で話すだけですがね」といったグールドの発言から、テクノロジーがもたらす「孤独」と「連帯」について。 「私は、自分の指がひいているのではなく、自分の指はまさしくその瞬間にたまたま私と結びついている独立した単なる延長物だと感じるときがあるんです。私は、自分がしていることに全身的に身を委ねながら、自分自身に距離を置く手段を見出さなければなりません」(グールド)
→ふたたびマクルーハン(とその研究者レヴィンソン)、シュネーデール、アドルノ、ボードリヤール、ヴィリリオ

【終 終わりに】
・「トラブルを起こせ!」といった文脈で、無理くりジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』(←関係ないじゃん・・・)が引用されているような気配がある。危険、過去の私に警告だ。グールドの議論や実践は、表現すること、あるいは文化の受容についての今日的な諸問題につながるという指摘でまとめた、と思う。

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今、とある「孤独プロジェクト」に参加していることもあって、第5章をふくらませた論を考え中である。グールドと「孤独」はつねにセットで語られてきたけれど、その社会学的な考察はなかったかと。メディアの「連帯」/「孤独」についてはうちの師も随分前に語ったことであるし、メディア論の前提であるけれど、携帯電話やインターネットなどやたらとメディアによる「連帯」が強調される現代において、その「孤独」な利用法(ポジティブな意味での)を改めて考えてみるのも悪くなかろうかと。もちろん身体のこともからめて。

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