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断片的、あまりに断片的な

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不気味な他者―『はせがわくんきらいや』『気流の鳴る音』

昨年のことだが取りにかえるものがあって実家を訪れたときのこと。居間に絵本が散らかしてあって、母に理由を尋ねると、絵本の整理をし「どこぞの誰かからもらったような"ダサい"ものは捨てる」という。

雑誌等の「芸能人のお勧めの本」といった特集で絵本を紹介する人がいる。そんな行為はついついなんだか「純粋無垢」なイメージの押し売りのように感じられてアホらしく思ってしまうことが多い私だが、それは別に絵本が嫌いだからというわけではない。懐かしさもあって、何冊かパラパラとめくった。
長谷川集平の『はせがわくんきらいや 』(1981年すばる書房)は当時だいぶ評判になったようだが、昭和30年の森永乳業徳島工場で製造されたヒ素入りドライミルクによって125人の赤子が死亡した事件を踏まえてかかれたもので(筆者自身もヒ素ミルクを飲んでいる)、作中の「はせがわくん」はそのミルクの被害者だ。

「ぼくは、はせがわくんが、きらいです。はせがわくんと、いたら、おもしろくないからです。なにしてもへたやし、かっこわるいです。はなたらすし、はあ・がたがたやし、てえとあしひよろひよろやし、めえどこむいとんかわからん」
「長谷川くんきらいや。せっかくぼくら仲ようしたりようのに。野球のときも、ゆるい球なげてもらいよんやで。そやのに三振ばっかりや。ぜんぜん勝てへんやんか。頭にくるやんか」
「長谷川くんもっと早うに走ってみいな。長谷川くん泣かんときいな。長谷川くんわろうてみいな。長谷川くんもっと太りいな。長谷川くん、ごはん、ぎょうさん食べようか。長谷川くんだいじょうぶか長谷川くん」
「長谷川くんといっしょにおったらしんどうてかなわんわ」
「長谷川くんなんかきらいや。大だいだいだいだあいきらい」

漢字にはすべてルビがふってあった。
真木悠介(見田宗介)氏の『気流の鳴る音―交響するコミューン 』を学部のゼミで読んだときに、ゼミ仲間と話したことが思い出された。今、その本が手元になく、実家で探したけれど見つからなかったので詳細を書くことができずウロ覚えの話になることを了承して欲しいのだけれど、紫陽花邑(あじさいむら)という宗教法人の共同体(コミューン)に関する箇所を読んでのことだったと思う。ひとつひとつの小さな花が合わさって大輪となっている紫陽花のように、そこでは一人一人の個性を尊重しながら共存する(真木は、個々が一体化する「モチ」的関係と対比させて、「ニギリメシ」といっている)。そこでは、「健常者」が「身体障害者」に対して「オマエの足、曲がっててかっこわるーい、気持ちわるーい、アハハ」というように、障害と言われているものを個性とみなして生活しているということだった。紫陽花邑ではそれが実現されているのかもしれないが、でもまずもって「不気味」だよね、というところからしか始まらないわけで、そういった不気味さがはじめからないと宣言するのは強迫観念だ、といった類の話をしたのだった。そもそもよく知らない奴=他人なんて「不気味」なのだし。それに一方的に相手の障害を「個性」と名指すとするなら、それはどうなの。
「はせがわくん」に対して「きらい、きもちわるい」という反応は当然である。それは「ボク」にとっての「自然」ではなかったのだから。もちろん「不気味さ」と共存するうちに、それが「自然」となっていくのだろう(その共存は「想像」でもあり得る)。だから、「ボク」が「キモイ、キモイ」と言ってるのは、その過程にあるというわけで、プロセスとしての「いじめ」をふっと考えたりするのだった。集団VS1人のいじめが醜悪なのは、集団のある1人以外はとくに相手に対して「不気味さ」を感じていないからなのではないか。「アイツなんだかムカつくんだよねー」「おーやってやろう!」っていう周りのただのノリ。

■関西弁を引用したわけだが、変換に困るというのを知る。


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