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断片的、あまりに断片的な

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「純愛」か「したたか」か――東野圭吾『容疑者Xの献身』

1、ガリレオと原作
職場の知人が直木賞受賞作品を何冊か貸してくれた。そのうちの1冊が東野圭吾氏の『容疑者Xの献身』だった。天才物理学者・湯川学が、数々の難事件を解決していく「ガリレオシリーズ」の1作品である。「ガリレオシリーズ」は昨年テレビドラマ化され、『容疑者~』の方は現在映画公開中という話題作である。

ドラマの方は2回くらい見ていて、バラエティー番組でもたびたび真似されていた福山雅治が演じた主人公・湯川学の個性的なキャラクター(というよりキメゼリフ)も印象に残っていたが、そのイメージに惑わされずに読むことが出来た。  

作者が描く湯川のイメージは佐野史郎だったらしいが、それがために人物像が異なっていたというわけではなくて(佐野史郎だって浮かんでこない)、原作では湯川のみならず、全ての登場人物の印象が薄かった。全体的な印象としても「なんだか妙にあっさりした小説だな」というものだった。たんたんとした会話や描写、たんたんとした物語進行、たんたんとした終結。

この作品、「純愛物語」なぞと言われている。特に映画は、現在多くの人がブログで感想を書いていて、涙、涙に感動したという意見が多いが、私はこれが「純愛」物語なのかどうかにひっかかるのだ。「あんな安いドラマに感動するわけ?」と皮肉るとか、「純愛なんてあるのか」などと不毛なことを言うつもりはない。ある要素を誇張して強引に一つの読み、つまり「純愛物語」へと観衆を導く映画とは違って、原作の妙な温度の低さは多様な読みへと導くのではないか、と思ったのだ。

2、「純愛」
この作品で何が「純愛」であると捉えられているかをごく簡単に説明すれば、隣人・花岡靖子にほのかに想いをよせていた湯川の大学時代の友人で高校の数学教師である石神が、その天才的頭脳を武器に、彼女(とその娘)が犯した犯罪の身代わりになろうとするという「献身」っぷりである。

靖子が、突如訪ねてきた元夫を殺してしまい茫然としているところに、隣人・石神が犯罪の隠蔽をかって出る。花岡親子のアリバイ工作、そのために行ったもう一つの殺人、警察の尋問への対応の教え込みなど、石神はなんとか親子が犯罪者にならないようシナリオ作成に尽力する。しかし、警察の捜査がすすむにつれそのシナリオが綻びを見せ始めると、「靖子のストーカーである自分が、嫉妬にかられて彼女の元夫を殺害した」といって自首するという、「身代りのシナリオ」へと突き進むのだ。

「私にまかせてください」という石神の言葉に、ただただ従うだけの花岡親子は、石神に指示されて行った行動や工作が、どんな意図がありどんな意味をもつのかを知らない。もちろん自分たちを守るために、別の殺人が行われたことも知らない。

旧友として、石神の一連の振る舞いに疑問を持った湯川に、ある意味「説得」されたかたちで最終的に花岡は罪を認める。自分の「献身」が打ち砕かれてしまった石神が悲痛な叫び声をあげて話は終わる。

つまり「気味の悪いストーカーの犯罪」と思われようとも石神が花岡を守ろうとした姿、それを知った花岡が涙ながらに石神に謝罪する姿、そして結局花岡を守れなかったという石神の苦しみ・・・・・・に涙した、というわけだ。

だが、これすらも石神のしたたかなシナリオだったのではないか。

3、「ストーカーは演技だった」という演技
 石神は、自分がストーカーであったと見せかけるために、写真を隠し撮りしたり、パソコンで「勘違い」な脅迫状を送ったり、自室の壁に集音器を設置したことになっている。だが本文では、それらがいつから石神の部屋に置かれていたのかは記されていない。それらは事件が起こる前から、つまり靖子を密かに想い、彼女が勤める弁当屋に通い続けていたときから、すでにそこにあったのかもしれないのだ(花岡が自室で殺害をおかしてからすぐに、「どうかしましたか?」とやってくる石神)。つまりそれらストーカーの要素は、あたかも「献身」あるいは「純愛」のために事後的に用意されたかのように見せかけられた、とも考えられる。「ストーカーを演じる」ということを演じることによって、石神は演技以前の「ストーカー的行為」を無に帰し、たくみにそれを「NOTストカーの純愛物語」へと変換したのだ、と。

石神は、天才的頭脳を持つ旧友湯川であれば、「石神が犯人ではないこと」=「ストーカー行為の虚偽」を見破ることができるとわかっていた。石神は、そんな湯川の頭脳を、自身の「純愛物語」の構築に利用したのである。湯川は花岡に、「石神は殺人まで犯して、あなたを守ろうとしたんですよ」、と真相を明かす。花岡の心から、石神が消え去ることはないだろう。石神は花岡の心を一生掴んで離さないだろう。

4、キャラクターの不在
この事件の「真相」らしきものは、湯川の「推測」あるいは「旧友としての勘」で導かれるものであって、証拠が出揃っているわけではない。石神の心情や行動も、そこがキモだからほとんど描かれていない。だからこそ、上のような「うがった推測」も可能となるのだ。

別の「うがった推測」を行っていたのが推理小説家の二階堂黎人氏である。彼は2005年に『容疑者~』が「本格ミステリ」で1位を獲得したことをうけて、「『容疑者~』は本格ミステリーではない!」と自論を展開し、ミステリー界(?)に「本格」論争を巻き起こした。この論争については省略させてもらうが(ナカナカ「不毛」でおもしろいのですが・・・)、二階堂氏は「本格」ではない要素に、主人公の「推測」で真相が導き出されることをあげている。証拠のない「推測」が成り立つのであれば、別の「推測」だって可能なはずだ、と。そこで展開したのが、「石神が本当に愛していたのは、花岡靖子ではなく、その娘である」という「推測」だ。二階堂氏はこの「推測」が導き出されうる場面や描写をいくつか示しながら自論を展開する。多くの読者はこの読みに「そんなバカなことあるわけない!!」といって拒否するが、「それがあり得ない」という証拠もまた特にないのである。

例えば、花岡の娘が普段どのように生活し、どうような思考を持っているかといったような描写があれば、上の二階堂氏説や私の「石神の『純愛』構築」説はもっともっと疑わしいものになっていた、というよりもそのように読む余地を与えなかったかもしれない。直木賞審査員のジュンちゃん(渡辺淳一)は、「人間が描けてない」と言って東野氏の受賞をいく度となく阻んできたようだが(豊崎由美ら談)、「描けてない」のではなくむしろ「描いてない」のではないかと思った。安易な感情移入を拒否する、といったような。
5、イケメン―美しき愛の主体
原作では別の読みが可能だが、映画ではひたすらに「純愛」物語として読ませるようなものになっている(実は監督としては別の読みをさせる仕掛けを行ったらしいが)。そもそも、原作では髪の毛が薄く、目が細く、首が太くてさえない石神を、「イケメン」の堤真一が演じるというのは、映画としての華やかさや話題作り以上に、「純愛」ドラマを強固にするために必要であった。

というのは、例えばネット上で石神のイメージに合う人物としてあげられていた塚地武雅や温水洋一、もっといえば無名の俳優が石神を演じていたら、別の殺人を犯してまで花岡を助けようとした石神の姿に、嗚咽のような叫び声をあげる石神に感動して涙を流しただろうか。乱暴かつ失礼なことを承知でいえば、「気持悪っ」「押し付けがましい・・・」などという反応を多く引き起こすことになったのではないだろうか。それではだめなのだ(ヒットしないのだ)。

どんなにみすぼらしい格好をしようとも、髪の毛を梳こうとも、数々の恋愛ドラマを演じてきた堤の「イケメン」は、「純愛」の記号として機能してしまうのだ。それは他の読みの想起を圧する。思考停止を促す装置としての「イケメン」。感動という思考停止。

原作のキャラクターの不在が、別の読みの余地を残すことを意図してのことだとすれば、なかなか面白いと思ったし、逆に個性あるキャラクターは確固たる一つの世界観を構築するが(ささいな矛盾なぞどうでもよくなるような)、つまりそれは視点を偏狭化させるということだ(ここにはむろん、文字とヴィジュアルの違いも当然関係してくるが)。
まぁしかし・・・原作でも涙している人はたくさんいるようである。「あまりに純愛すぎて、悲しすぎて、泣いてしまいました」って・・・。そんな反応の多さにうんざりして、今回遅まきながら書いてみたのだった。ワルかもよ、石神。

「本格派」については、やはりこちらから・・・


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