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断片的、あまりに断片的な

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同調する身体――ヤマザキナビスコカップ@国立競技場2007.11.3

「野球とかサッカーに集まる大観衆はなんだろうか。観客はただの傍観者、勝敗にエキサイトして騒いでいるだけではないか、という人もいるだろう。なぜ、人はスポーツを観るのか?という設問は一見したところでは、なされてしかるべきもののように見えるが、実は設問自体が間違っているのである。・・・略・・・観客として味わうエキサイトメントに、スポーツの社会的、文化的本質が含まれているのである」〔多木浩二1995〕

「2007Jリーグヤマザキナビスコカップ」を観戦してきた。これまでスポーツにほとんど関心がなかった私だが、多木浩二氏の『スポーツを考える』ぐらいは学部時代に読んで所有していたので、行きの車内でパラパラと復習。今回はその本と、渡辺潤『ライフスタイルとアイデンティティ』のスポーツに関する章を参照しながら、「ナビスコ体験記」をお送りしようと思う。

国立競技場の最寄り駅「千駄ヶ谷」に到着。しょっぱなから文句をたれるようだが、同じ目的でこの地に訪れたであろう人びとの群れを見るだけで、まずげんなりする。これは何もスポーツの場に限ったことではない。大学受験のときも何よりコレがイヤだった。アリの群れのように駅からゾロゾロと歩いていくさま。まぁ、すぐに慣れてしまうのだが、大げさなことを言えば、これは清水学がいうところの、自分の「分身」に出くわしたときの不安であるかもしれない。

「前方から近づいてくる人間が自分とまったく同じ衣装を見にまとっていることに気づくときの、あの感覚。・・・もっと単純に恋人を他人に奪われるというような瞬間・・・。まるで自分という人間から、ふいに足場がとりはずされてしまったかのような感覚をもたらすのだ」〔清水1999〕。

当然ながらこの手の不安は、例えば「私だけのトム(ハート)」などと、思い入れのあるアーティストのライブを観に行くとき強く意識されるものだ。もちろんこの不安は不安で終わらない(こともある)。自分の「足場がとりはずされて」しまうのが、「一体感」なるものの快楽の基本であろう。

前置きが長くなったが、そんなことを思いつつ会場入り。試合開始前から両チームの応援合戦。座席の横に丸めて置いてあった、かわさきふrチームカラーである水色の紙を頭上に掲げる。われらの座席付近では、こういった儀礼行為への参加がまばらで、応援団員が叱咤(?)しにやってくる。「選手が入場してきたら紙を掲げてください!そして裏側に載せてあります応援歌をともに歌ってください!」。私は思わず「イヤダ」とつぶやく。

私は、フロンターレにもガンバにも愛着はないが、どちらかに愛着を持ったほうが、観戦が面白くなることは知っている。「スポーツの面白さは、主として選手の見事なパフォーマンスに依存している。・・・エキサイトメントの本質・・・それは単純にいうと脱自の状態、他者への同化のなかで生じている」〔多木〕のであるから、同化する身体を定めなければならないのだ。試合開始前には巨大スクリーンで、両チームの選手紹介が派手になされるから、じっくりと「同化する身体」の品定めができる。スポーツとメディアの関係は密接だが、それはテレビやラジオだけに限らず、このような「ライブ」の場でも同様だ。今シーズンの両チームの活躍がダイジェストでまとめられ、チームや選手に対する「真偽のほどもしれない感情移入をさせてくれる」〔多木〕。

結局私は、バレー選手に惚れ「ガンバ大阪」を応援することに決めた。連れは当然「川崎フロンターレ」を応援するという。別のチームを応援することはちょっとした「遊び」だ。「勝負の遊び(アゴン)」は、しばしば「賭けの遊び(アレア)」になるとロジェ・カイヨワは指摘した。競馬や競艇といったギャンブルはいわずもがなだし、もちろんサッカー(Jリーグ)も賭けごとの対象だし、そのほか勝負あるところの裏には必ず「賭け」が遊ばれているはずである(金銭が介在するか否かに関わらず)。そしてその「賭け」は、他の「賭け人」との勝負になる。馬券がはずれて悔しがるとき、そこには、例えば大当てした知人/友人に負けたことからくる悔しさもあるのだ。

昨年の有馬記念で連れが勝ったので、そのあぶく銭で一緒に飲み食いさせてもらったが、やっぱり悔しかったもんである。とまぁ、連れと異なるチームを応援することは、連れとの勝負という別の楽しみを提供してくれ、より選手への同化は強まる。まさに私はバレー選手となって、連れ(川崎フロンターレ)と勝負するのだ。
試合開始。テレビでもスポーツ観戦はほとんどしない方だが、それでも、ときに批判の対象となる解説やコメント、あるいはプレーの再現(スローとか)がないのは奇妙な感じで、メディアの力を改めて思い知ったのが1つ。そして、なんともまぁフラストレーション溜めさせるスポーツだというのが1つ。野球と異なり、攻防が瞬時に入れ代わるスピーディな展開がサッカーの魅力というけれど、とんでもござんせん。90分間ほぼイライラしていたというのが正しい。そしてそれは、やはり点が入りにくいということに尽きる。というか、はっきりとした「勝負」あるいは「対決」の瞬間が見えづらいのだ。

多木は、アラン・エルベールのスポーツの定義、「平等から出発して、最終的に不平等に達する過程」をうけて、スポーツの過程と結末を「0→+/-」と表記している(もちろんこれは原則であって、最初から不平等があることもある。例えば順番、ドーピング・・・)。多木のこの記号は、あくまでも試合開始とその結果を表したものだが、試合過程はこの「0→+/-」の繰り返しにおもしろさがある。つまり、たとえ1点取られても、また1点取り返せば「0→+/-・・・0→+/-・・・0→」となるわけである。実況レポーターの「さぁ、わからなくなってきましたぁー」というやつだ。

サッカーはこの「0→+/-」の動きが極端に少ないから、イライラムカムカとフラストレーションが溜まる。もちろん、他のスポーツでも、はじめから終わりまで一方の優勢で、つまり「0→+/-」が変化することなく終わってしまう場合もある。だがそれでも、+/-から0に向っているという、その力をはっきりと実感できる瞬間があるスポーツの方が多い。つまりそれは、点が相互に入りやすいということに尽きてしまうのだが、例えば、バスケットやバレーボール。応援するチームが負けたまま試合が終わってしまおうとも、それらは点取りが比較的相互になされるスポーツだから、イライラムカムカを消化できる瞬間がある。あるいは1対1の対決を見せる野球もそうだろう。フラストレーションが溜まりに溜まるがゆえに、その1点に異常に狂喜乱舞できる。だが、こまめに、一瞬だけでもイライラが解消できないサッカー。負ければ、もうそれはなんともいえないやりどころのない怒りになる。そしてフーリガン。
ところで、やはり「サポーター」たちの応援のありようは興味深い。いろんな方々のブログを拝見してみたが、あの「異常な」応援の仕方には、「ゲームを楽しんでいない」とか「海外の猿真似」など否定的なものがチラホラと。確かに、応援団長の指揮のもとでなされるあの規律だった応援にはむしろ、「点取ったのにうれしくないんかな?」と思えるほどの「無感情さ」を思ったことは事実である。あるいは頭上に掲げられた紙、「えー!それじゃあ選手登場見れないジャンーー」。

「一緒になって踊り、声をあわせて歌い、かけ声をかけ、声援を送る。そこに、共通の関心、好み、立場、あるいは考えをもった人びとの集まり」によって形成されるものを、グロスバーグは「愛着同盟」とした〔渡辺2007〕。

サッカーだけに限らず、野外フェスティバルやレイヴ、あるいは「コミケ」など、90年代以降、巨大な「愛着同盟」を結べるような場が次々と登場した。もちろんそのような場は90年代に入って突如として現われたものではない。だがなぜ、それらが巨大化し増殖し、多くの人びとを集めたのが90年代以降だったか。

「現代はしっかりとした神話や伝説が失われた反面、さまざまな物語が氾濫する世界。自己を縛る古くさい習慣からはときはなたれたが、それにかかわるじぶんなりのアイデンティティを見つけなければならない社会。生きられるわたしを意味づける材料にはこと欠かないが、逆にたしかなものは見つけにくい。メディアと一体になって提供される音楽やスポーツが、魅力的な物語の供給手段であり、それが『わたし』を物語るための材料となることはまちがいない」〔渡辺〕。

名前も知らぬある人から、「なぜ今カーニバルが必要か?」と問われたのだが、それに対する答えはここにあるような気がする。ただし、カーニバル(祭り、儀礼)の基本である、自分の社会的ポジションの「零度化」ではなく、「たえずなにかにじぶんを重ねて確認しつづけること」〔渡辺〕なのだが。

ちなみにこの日は、わたしが同一化した身体が勝ちました。うふ。

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