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断片的、あまりに断片的な

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「美人」は何処へ?―井上章一『美人論』『美人コンテスト百年史』(前半)

今年5月にメキシコで行われた「ミス・ユニバース2007」で、日本代表の森理世氏(写真一番右)が第一位に輝いたことは記憶に新しい。私はVTRで大会の様子を途中まで見ていたのだが、なるほど、(欧米的視線で見るところの)アジアンビューティ、エキゾチックビューティが今のトレンドなんだなと思わされた。世界的「美人」といえば、ブロンドで光輝く長い髪、青くて大きな瞳がお決まりだった時代はどこへやら。5人のファイナリストは全て黒髪。その他の代表者も黒髪が多かった。髪型は同じにする決まりがあるのか、みな同じ髪型で、同じように抜群のプロポーション、審査員たちは一体どこで彼女たちを差異化するのだろうかと思ってしまうほどだった。そういう意味で言えば、森氏はユニークだったのでしょうか(病気や怪我によって変形してしまった顔を「ユニークフェイス」というそうだが、もちろんそういった意味ではない。こう規定されてしまうと安易に言葉が使えなくなるなぁ)。

「美人」というものを考えるとき、時代や社会によって「美」観は異なるから、「美人」が何たるかもまた時代や社会によって異なり、変容してきたということは、誰に教わらずとも、歴史の教科書の挿絵や写真などを眺めているうちに知ったことであろう。日本の場合でいえば、丸い眉毛と細い目、しもぶくれの丸い顔、そしておちょぼ口の「平安美人」は、今では「ブス」の婉曲表現ですらある(時代による「美人」観の変容についても、井上は疑問を呈している→後述)。
しかし、時代・社会によって「美人」の内容は異なれど、ともかくいつの時代もどんな社会でも「美人」がいて「不美人」がいるということには変わりない。ではその「美人」と「不美人」の関係、あるいは両者の社会的な位置づけは今も昔も変わらないのか。もっと簡単に言えば、例えば現代では「美人」がちやほやされているとするならば、いつの時代も「美人」は何らかの権力を持ち、それを行使してきたのかということである。井上章一の『美人論』は、「美人」と言われる人々を取り巻く言説を検証することによって、「美人」の取り扱われ方や社会的な位置づけがどのように変化してきたのかを読み解いていく。

今日、「美人」と言われれば、たいていの人が、例えお世辞とわかっていても恥ずかしがりこそすれ悪い気はしないだろう。こちらとしても、「美人」を見るのはやはり目が喜ぶ。「美人」に対するひがみややっかみはあろうが、それも「美人」の優越性を認めているが故の反応であり、現代において「美人」であることは社会的に見ても価値あることであると了承されているだろう。だが、ちょっと時代を遡ると事情は異なってくる。

その美貌で男を惑わし魅きよせ、そして最後には男を破滅させててしまう女は、今でも宿命の女〈ファム・ファタール〉として繰り返し描かれる女性像だが、昭和初期までは、そのような女性たちはもっぱら花柳界の人びとに結び付けられていた。現代のような自由恋愛はありえなかった江戸時代、とりわけ上流社会の結婚は家柄と血筋が重要視され、一度も顔を合わせることもなく結婚の契りが交わされていた時代にあって、ルックスの良し悪しは問題とならない。だから、良家の娘は「美人」である必要はない、例え「美人」であろうともそれをアピールする必要もない。美貌を武器にするのは「卑しい」女の仕事だったのである。
しかし明治期に入ると、新政府による開花政策のひとつとして、士農工商という身分制度が解体される。建前上四民平等になり、華族から平民にいたるまでの結婚の自由が認められた。これによって何が解放されたか、それは「男の面食い」であると井上はいう。「美人」が卑しい者とされていても、それは「美人」であり、魅かれてしまうことには変わりがない。だから本妻とはまた別に、遊郭で女性と遊ばれていたわけだが、19世紀後半には欧米からやっかいな文化が持ち込まれてしまう。「社交」である。

1883年に落成した鹿鳴館とそこでのダンスパーティがその象徴だといえるが、社交の基本は夫婦同伴。それまで公の場にさらす必要もなかった妻の容姿がしげしげと見られる。「こうなると、妻たちも、もうかつての奥方ではありえない」。とりわけこの社交文化の導入は、欧米並みの身体を欧米人にアピールするための場であった。自分たちはもとより、妻も日本人女性の代表として欧米からの視線にまなざされることになる。そうなれば、前近代的なみっともない女などねらい下げだし、「社交」となれば男性とのお相手に慣れている人の方が好ましい。ときの総理大臣、伊藤博文は芸者と結婚している。近代化=ルックス化、自由恋愛=面食い解放というわけである。

確かに身分制度の解体は、ルックスの力を解放した。どこぞの娘かとわからぬような者が総理大臣の妻の座を射止める、そんな社会階層秩序の乱れが起こる。卑しい身分の成り上がり、当然それを嫌がる人びとはいるわけであるし、「美人」=花柳界の「卑しい」人びとという構図はさらに強まる。さらに、「社交化=欧米化」された身体は、国粋主義的な立場から見てもいぶかしいものであった。そこででてきたのが「美人排斥・罪悪論」であり、健康こそが「美人」であるという「衛生美人」というコンセプトである。でもこれは、面食いの欲望が解放された後の、建前上の弁論である。「美人の方がいいに決まってるー」とおおっぴらに言えるように、あるいは「私は美人よ」と大っぴらに言い得るようになってしまったが故の苦肉の策で、「美人はいかん」となど本当は誰も思っちゃいなかったし、「平安美人」同様、「衛生美人」も「不美人」と同義、冷笑的に使われる言葉にすぎない。

面が、ただただその表面が評価の対象となる。それは許せないと、とりわけフェミニズム陣営が言う。性の商品化であると。しかし、表面を、ルックスを売り買いしているという点に関して言えば、男女お互いさまである。私はロマン・デュリス主演作品を甘く甘く見る。ただ、ロマンが出ていれば良かったりする。そこから先のこと、例えば「オカズ」にするとか、職の採用で「美人」を優遇するとか(ホストはあんなに奇妙奇天烈な風貌なのになぜもてる?)はまた別の話である。
女性が男性に、やさしさ、おもしろさ、強さ、頭のよさ・・・そんな移ろいやすいことを求めなければいい、とにかく表面なんだよ、ルックスなんだよと言ってしまえれば。ジャンヌ・モローのように。
 「(あなたが男性に求めるのは)お金ですか、知的な人ですか、有名な人ですか」
 「そんなものは私は持っている。殿方は美しければそれで結構」
そういえる立場、ってことだね。

つづく

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