忍者ブログ

断片的、あまりに断片的な

Home > ブログ > > [PR] Home > ブログ > Body/Fashion > 「美人」は何処へ?―井上章一『美人論』『美人コンテスト百年史』(後編)

「美人」は何処へ?―井上章一『美人論』『美人コンテスト百年史』(後編)

先回、明治期に身分制度が解体された結果として、身分や血筋ではなく「顔の良さ」で結婚相手が選ばれ得るようになった、つまり近代化とは「男の面食い解放化」なのだという井上の論を見てきた。この「面食いの解放化」によってもたらされたのは、(1)花柳界の玄人だけではなく素人もそのルックス力で価値付けされていくがゆえに、むしろ女性たちがルックスという強力な武器を獲得したこと(すべての女性が売春婦に!)、(2)「美人」であればどんなに身分が卑しかろうが総理大臣の妻の座を射止めてしまうといったこれまで強固だった社会階層秩序が乱れる、というこの2点に集約できるだろう。それをなんとかおしとどめようと、「美人排斥・罪悪論」が展開されたというわけだ。修身(道徳)教育で、「美人はダメ、ブスはよろしい」と堂々と教えこんでいたのである。

この修身教育がどれほど女性たちに浸透していたのかを示す好例として、1907年に行われた「美人コンテスト」での一騒動がある。これは素人娘を対象としたものでは日本初のコンテストであるが、「美人は堕落している!」と叫びながら、美しい顔を競い合わせるとはなかなか矛盾している。それほど当時の日本は近代化するべく、ありとあらゆる欧米の文化を取り込もうとしていたのだ。

つい先日までは「美人の品定め」は玄人の世界に限られたことであり、さらに「美人排斥論」が大手を振っている。そんな状況にあって、素人の女たちが自ら進んで自ら進んで「美人コンテスト」に応募しようとは、簡単には思い至らない。実際に、この初の素人美人コンテストで優勝した末弘ヒロコさん(学習院中等科三年生。当時16歳)は、義兄の手によって知らぬ間にコンテストに参加させられることになったのだが、泣きながら出場取り消しを訴えたという。その訴え聞き入られず、結局末弘さんが優勝してしまうのだが、それを知った学校側は彼女を退学させている。「我が校に『美人』がいるなどケシカラン」というわけだ。

このような「美人」は罪だとする、「美人排斥論」はそう長くは持ちこたえない。どんなに「美人」がダメだと言われようとも、「美人」に魅かれてしまうのはどうしようもない。危険なものにこそ魅かれてしまうということもあるだろう。そして「美人」に魅かれるのは男たちだけではない、女たちも雑誌などから「美人」のイメージを吸収し、「美人」に憧れる。舶来物の化粧品や洋装に興味を持ち出すのと同様に。男女が共犯的に「美人」という幻想を作り上げる、男の欲望する「美人」、女性が憧れる「美人」、それは決してイコールではないにせよ(だからこそ面白い)。

「美人排斥論」が展開された理由のひとつに、社会階層秩序の乱れへの懸念があった。しかしそれは確固たる階層を前提とした議論であり、戦後民主主義の時代に入って、不平等や差別に疑問が突きつけられていた時代には当然なじまない。「一億総中流」かのような見かけが徐々に取り繕われていけば、「身分違いの恋」なんてもんはアナクロっぽく感じられるようになる。 そして民主主義は「美人」のコンセプトにも変化をもたらす。「美人/不美人」という二項対立はナンセンス、「女はみんな美しい」というわけだ。「現代の倫理は、しばしば恋愛の重要性を強調する」。それは、「恋愛の対象となれば、女はみんな美しく見える」からである。相手が恋愛の対象となるまでには、顔の好みも少なからず反映されるだろうが、それだけではダメだというのが戦後以降の恋愛極意だろう。悪者は、「美人」から、美人を好むもの(面食い)へと転換する

みんなが美人である、いや美人になれるのだ。井上はこの「美人平等論」を背後で支える化粧品産業の存在を指摘する。物を買わせるための戦略(広告)の一つは「不安がらせる」こと。「アンタ、これ使ってないの?なんで?美人になれるのに!」。現代でも、「女はみんな美しい」という平等スローガンは変わっていない。むしろ「美人」になれるのにその努力を怠るとはなんて怠惰であろうかという言説に変化している。かつて「美人」は不真面目、怠惰な女のしるしだったが、現代では「不美人」であることこそが怠惰で罪なのである。濃い口紅、べったりとしたアイメイク、舞台メイクのようなシャドウの入った肌。全ての女性が美人になれる過剰かつ作為性たっぷりの化粧は、今や「ナチュラルメイク」にとって変わっている。もちろんこれは、平等から個性(本当の私)の呈示へと見ることもできる。そして、「ナチュラル」の演出こそが一番難しかったりする。「不自然」な私のおてもやんメイクはちょちょいのちょいだ。

鷲田清一は、昨今の女性のメイクの「消極的」な態度を、社会に対するそれと結び付けている。しかし、「美人」は女性だけで作りあげるものではないのだから、それはそのようなメイクを受け入れる社会との合同作品であろう。 美顔、ファッションに積極的にならなくてもよかった男の歴史も徐々に変化しつつある。男がオシャレになったというより、男がやっとこさ対象化されてきだしたということだ。

でも井上さんはそんな時代いやなんだって、自分が面食い宣言しているのに、自分が面で評価されるのはいやだと。それは男女問わずの思いであるかもしれない。でも男性がひょうひょうとそう言うことは、ある種とてもおもしろいパフォーマンスになり得る。 「私はかっこいい人が好きなんですけど、男性が女性を顔だけで選ぶのってどうかと思う」って愉快じゃないでしょう。 井上さんの場合は、「イヤ、ボク、ダサイんですけどね、でも女性は美しくなきゃダメなんですよ~」。ムカつくかもしれないが、呆れさせる、でもそういう立場ってことだね。(前編と同じ締め)

PR